それ、悪文かも。話せても書けない「書き言葉」−悪文を書かないための講座 

2019.05.17 Friday 15:09
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    学校英語では、英文法(grammar)をみっちり教え込まれるのに、母国語である日本語の文法や作文技術をあまり教わらないのは、学校七不思議の一つです。話し言葉と書き言葉は別物です。日本語を母国語として日常的に使っているから、書き言葉も自然とできるようになるわけではありません。英文法と同様に、書き言葉もルールや技術を教えるべきです。

     

     

    先日、スーパーにドレッシングを買いに行った際に、ポップに書かれた以下のコピーが気になりました。

     

     

    『玉ねぎ特有のシャキシャキとした食感や甘みを引き出すため、相性の良い玄麦黒酢を合わせたドレッシングで、まろやかな酸味とコク、芳醇な香りが特徴です。』

     

     

    伝えたいことはなんとなく分かります。しかしながら、アピールポイントの主軸がどこにあるのか、玉ねぎなのか、黒酢なのか、食感なのか、甘みなのか、酸味なのか、コクなのか、香りなのか、なんでしょう。そもそも、文章がスッと頭に入ってきません。なぜはっきりしない印象のコピーになってしまったのか文章を分解してみます。

     

     

    ■係り受けがはっきりしない

     

    係り受けとは、文節・句ごとの修飾・被修飾関係をいいます。前半部分『玉ねぎ特有のシャキシャキとした食感や甘みを引き出すため』に注目してみましょう。まず文節・句に分解します。

     

    玉ねぎ特有の / シャキシャキとした / 食感や / 甘みを / 引き出すため

     

    日本語は動詞を係り受けの終着点として文が構成されます。前半部分では、【引き出す】という動詞が終着点です。【引き出す】に係るのは【食感(を)】と【甘みを】になります。続いて2つの形容表現の係り受けを見てみましょう。【玉ねぎ特有の】は【食感】と【甘み】にそれぞれ係ります。【シャキシャキとした】は【食感】にだけ係るはずです。″シャキシャキとした甘み”はちょっと変ですよね。ところが、この文節順では”シャキシャキとした甘み”と係り受けが起きてしまいます。不要な係り受けを避けるために下記の様に順序を入れ替えます。

     

    玉ねぎ特有の / 甘みや / シャキシャキとした / 食感を / 引き出すため

     

     

    ■一文が長い

     

    伝えたい情報を一文(72文字)にすべて詰め込んでいます。一文が長くなると伝えたい情報が2つ3つ入ってしまい、何を伝えたいのか逆に分かりにくくなります。"一文一意”という原則があり、一文には一つの情報だけを載せると読み手に分かりやすい文章となります。今回のコピーでは、大まかに捉えて2つの情報が一文に入っています。

     

    ゞ未佑と黒酢を合わせた。

    ∋戚とコクと香りが特徴。

     

    一文が長くなる傾向に陥る人は意外と多いのではないでしょうか。「〜で、」・「〜して、」を多用すると文章が長くなり、一文中に情報量が多くなりがちです。そこで、一文を40文字程度にすると一文一意に収まりやすく、読み手に情報が伝わりやすくなります。(40文字より長い文章が悪文というわけではありません。ただし、それには高度な文章力を必要としますから、初心者の方は一文40文字を意識することをお勧めします。)今回のコピーも一文一意の原則に従って二文に分けてみます。

     

    『玉ねぎ特有の甘みやシャキシャキとした食感を引き出すため、相性の良い玄麦黒酢を合わせました。』

    『まろやかな酸味とコク、芳醇な香りが特徴です。』

     

     

    ■並列の関係がきちんと表されていない

     

    ,泙蹐笋な酸味 ▲灰 KЫ罎聞瓩蠅蓮△垢戮董敍団Г任后曚紡个垢觴膰譴任△蝓∧体鶸愀犬砲△蠅泙后ところが、〇戚と▲灰は助詞の【と】で結ばれているのに対して、9瓩蠅蓮據◆紛臈澄法曚之襪个譴討い泙后推測するに、3つの語句を助詞の【と】ですべて結ぶとリズムに締まりが無くなると、このコピーの作成者は考えたのではないでしょうか。並列語句の表し方には色々ありますが、今回のコピーでは【・(中点)】を使うといいでしょう。

     

    『まろやかな酸味・コク・芳醇な香りが特徴です。』

     

     

    ■イメージしやすい語彙を使用する

     

    ここまでの修正で文章としては、正しくなりました。次に、伝えたい情報を読み手がイメージできるように、使用する語彙を選定しましょう。日本語には、一つのものを表現するのに複数の単語が存在します。例として、雑草が生い茂っている場所を表現する単語に、茂み・やぶ・草むら・原っぱ等があります。それぞれの単語は、凡そ同じ意味ですが、微妙にニュアンスや連想するイメージが異なります。このドレッシングのウリは、酸味とコクと香りをバランスよく調合できたことですから、【特徴です】は、アピールするにはあっさりしすぎた表現です。以下のようにリライトしてみます。

     

    『まろやかな酸味・コク・芳醇な香りが調和した風味をご賞味ください。』

     

    主観や好みがあるものの、少しは良くなったでしょうか。

     

     

    ■形容詞を多用しすぎている

     

    強調したい気持ちが強すぎると、つい多用してしまうのが形容詞と副詞です。食レポで有名な彦摩呂さんが、これでもかというほどに形容表現を用いるので、一般の人も食べ物に関して形容表現を多用してしまうのかもしれません。しかし、彦摩呂さんの表現は芸の域であり、文章技術とは別物です。形容表現を多用しすぎると、読み手にはしつこい印象を与えてしまいます。真に必要な時にだけ形容表現を用いた方が、効果的に情報を伝えられます。今回のコピーで使用されている形容表現は以下の通りです。

     

     

    シャキシャキとした(食感)  相性の良い(玄麦黒酢)  まろやかな(酸味)  芳醇な(香り)

     

     

    シャキシャキとした⇒玉ねぎの食感が"シャキシャキ”しているのは、共通認識です。あえて強調する必要はありません。

     

    相性の良い⇒“玄麦黒酢”自体に個性があります。"相性の良い”も外してみます。

     

    まろやかな・芳醇な⇒"まろやかな酸味”はイメージできますが、"芳醇な香り”とはどのような香りなのか分かりません。

     

     

    形容表現を整理すると以下のようになります。

     

    『玉ねぎ特有の甘みや食感を引き出すため、玄麦黒酢を合わせました。』

    『まろやかな酸味・コク・香りが調和した風味をご賞味ください。』

     

    元のコピーを生かした形で修正しても、分かりやすくなったのではないでしょうか。文章は読み手に情報を伝えるものです。文章技術を会得すれば、分かりやすい文章を誰でも書けるようになります。もちろん、表現の仕方に正解は一つではありません。もっと上手にコピーを作れる方は名コピーライターを目指して頑張ってください。

     

     

     

     

     

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    無知な自分を知ることから始まる知性

    2019.05.16 Thursday 13:50
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      こーたろさんという方が投稿した以下のツイッターが話題になっています。

       

      『バスで料金払うときに手帳見せて障害者の料金で払ったんだけど、後ろの老人の一言でかなり落ち込みました。自分は発達障害だから見た目は何もないんです。「最近の若者は見た目丈夫なのに嘘ついて手帳貰ってるのか。」その先は頭真っ白になって聞こ取れなかったけど悲しいですね。』(原文のまま)
       

      こーたろさんは、自閉スペクトラム症とADHDを抱えており、精神障碍者保健福祉手帳3級を取得しているそうです。暴言を吐いた老人は、障碍者手帳を取得する手続きの大変さや障碍者手帳を持つ意味を知らなかったのでしょう。このツイッターのニュースを聞いて私は、古代ギリシャの哲学者プラトンによって書き起こされたソクラテスのある名言を思い浮かべました。

       

      『自身が無知であることに気づいた人間は、自身が無知であることに気づかない人間よりもはるかに賢いのである。』

       

      どんなに博識な人も諸事万端を知り尽くせません。“知らない”は恥ではありません。気をつけなければならないことは、無知に対して鈍感であったり、知った気になったりする態度です。知らない・分からないから疑問を抱き、調べ、考え、想像を巡らせる。無知であることに気づかぬ人は、自らの狭い見識から物事を判断するため、偏見や差別を生みます。思い込み・誤解・独りよがりな主張を正当化して、我こそが正義だと胸を張るのでしょう。

       

      このソクラテスの名言を初めて耳にしたのは、私が10代の頃だったでしょうか。当時は、「相手を言いくるめたい頭でっかちな人の屁理屈」ぐらいにしか理解していませんでした。改めて、ソクラテスの名言に込められた意図を自分なりに解釈すると以下のような感じでしょうか。知を探求する欲求や活動そのものが、知性であり、理性である。探求心の出発点は、自らが無知であることを受け入れる謙虚さにあるのだと。

       

      想像力のない人・意味を考えない人・自分都合で世界を捉える人・相手を敬う気持ちを捨ててしまった人…残念な人にならないために謙虚さを忘れず、探求する心を持ちましょう。

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      会話力向上のコツ−ある八百屋との世間話−

      2019.03.29 Friday 16:57
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        桜の開花情報にメディアがはしゃぐ季節になりました。とはいえ、4月中頃までは、暖気と寒気のせめぎ合いが続きます。“春は寒い”、ということを再認識するたびに思い出すコントがあります。

         

        「あ゛ぁ〜、もう4月になったというのに冬みたいに寒いなぁ〜。今年は異常気象とちゃうんかしらぁ〜。」「そやなぁ〜、ほんま、どないなっとねん。」と中高年のおばちゃんたちが会話するのを聞いて、ダウンタウンの松ちゃんが「毎年、ゴールデンウィークに入るまでは寒いねん。覚えとれ、ばばぁ〜!」とつっこみを入れる具合です。

         

        それはさておき、冬至を頂点にバイオリズムが低迷する私にとって、春分は気分が高揚する一つの節目となります。遅まきながら我が身の啓蟄です。

         

        日も長くなったある日の夕刻、通りすがりで見つけた八百屋さんに立ち寄ってみました。鮮度も大きさも良く、お買い得価格な野菜が並んでいます。買い物をしながらレジに目を向けると、愛想のいい店主が袋に野菜を詰めながら、野菜の仕入れ情報をお客に教えています。息子がピーマンの袋を手に取り、4個入りか5個入りかで悩んでいたところ、店主が「重さで詰めてあるからどちらも一緒だよ。」と威勢よく話しかけてきました。いくつかの野菜と果物を選びレジで精算してもらっている時、店内の壁にかかる1枚の写真に目がとまりました。いかにもプロレスラーな男と店主が一緒に写っています。写真の横には新日本プロレス○○△△(名前忘れた)と書かれたサイン色紙が掛かっています。すると、店主がすかさず私の目線に気づき、「プロレス好きですか?」と話しかけてきました。

         

         

        私「えっ、あ、いえ、そうでもないんですけど。子どもの頃、流行りましたよね。」…(知りもしないのに、余計なこと言っちゃったかな。)

         

        店主「このレスラーは○○△△で、俺の友達なんだよね。○○△△知ってる?」…(全然。プロレスラーって雰囲気はムンムンしてますよ。)

         

        息子「ぼくは、野球が好き。」…(子どもの発言は唐突で空気読まねえな。)

         

        店主「ライオンズの選手も昔はこの地域に住んでいたんだけどね。」…(お、野球ネタにシフトできるぞ。)

         

        私「一軍に昇格して稼ぐと、みんな都内に家を買っちゃうんですよね。」…(よしよし、話題のフィールドをこちらへ。)

         

        店主「そうなんだよね。そうそう、店の前の供用通路を使ってプロレスイベントをやろうってレスラーの友達と話しているんだよね。」…(おぉ〜、話題がブーメランしてきた。)

         

        私「へぇ〜、いいですね。今の子どもたちはプロレスに触れる機会がないですもんね。僕らが子どもの頃はテレビのゴールデンタイムで中継されてましたからね。」…(あぁ〜、話題に乗っかっちゃった。大丈夫か俺。)

         

        店主「お客さん、何歳?」

         

        私「4じゅう5です。」…(嫌な予感。)

         

        店主「その時代だと、藤波?」…(おっとー、分かんねぇ。)

         

        私「あー、ちょっと下かな?」…(なんだ下って、テキトー。見破られるのも時間の問題だな。)

         

        店主「長州? ■◇@*? %$×●△?」

         

        私「あぁ〜、えぇ〜、ううん〜、今もテレビ中継があれば、子どもたちがプロレスを身近に感じられるのにね〜。」…(苦しい逃避行。)

         

        店主「ああ、でも俺たちの頃は、ほら、金八(先生)が同じ時間帯にかぶってたから、視聴者を二分しちゃってたでしょ。」…(キタ――(゚∀゚)――!!)

         

        私「はいはい、金曜…」…(金八先生派だったもん。)

         

        店主「8時ね。あの頃は録画機なんて普及してなかったもんね。チャンネル争いしたでしょ。」…(よしよし、話題をこちらへ。)

         

        私「チャンネルガチャガチャ(ジェスチャー)でしたもんねー(笑)。じゃ、どうも―。」…(幕引きどころだな。)

         

        店主「まいど、またご贔屓に。」

         

         

        気持ちのいい八百屋です。また、野菜と果物を買いに行きます。

         

         

        店主と客のたわいもない世間話ですが、大型チェーン店やロードサイド店に淘汰された昨今は、こうした会話に遭遇することが少なくなりました。たわいもない会話にもコツがあります。会話の間と空気を読んで引き出しを用いると会話が膨らみ、場が和みます。話の引き出しを増やすために、常日頃から好奇心の眼を持ってアンテナを張りましょう。(そういう私もまだまだです。)話しかけるには観察眼と勇気がいります。一方、話しかけられるには相手が話しかけやすくなる“扉”を開けておく必要があります。目線や表情を意識して行動すると自分の持つ雰囲気がオープンなものとなります。風邪でも花粉症でもないのにでっかいマスクをしている人は世界から孤立しますよ。(あ、話かけられたくないからマスクしてるのか、余計なお世話ですね。)

         

         

         

         

         

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        情報のカプセル化に抗いたい

        2019.03.19 Tuesday 13:45
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          “家電運”というものがあるのならば、私は良運の持ち主ではないようです。特に酷いのが掃除機(クリーナー)運です。この10年間に4台の掃除機たちを看取ってきました。中には入院手術を試みたものもあります。付き合ってきた掃除機たちの形式も、オーソドックスな紙パック式×2⇒ハイパワーなセミサイクロン式⇒超軽量のサイクロン式と多種多様です。決して手荒な扱いをしているつもりはありません。ダストはこまめに除去しますし、フィルターとブラシのメンテナンスも欠かさずに行い、大切にしてきたつもりです。現在お付き合いしている5台目くんは、超軽量多機能紙パック式です。先日、この5代目くんの“ウリ”の一つであるヘッドノズルLEDライトが点灯しなくなりました。掃除機としての使用に問題はないのですが、販売店の保証期間内でもあったので販売店に修理を依頼しました。

           

          1週間後、無事に修理が終了したとの連絡が入り、販売店に引き取りに行きました。問題のあったLEDライドはヘッドノズル丸ごと新品に交換されていました。販売店の店員から「修理の詳細はこちらの明細に記載されております。」と袋に入った修理明細書を掃除機と共に手渡されて終了です。自宅に戻ってから修理明細書を見て驚きました。不良個所はLEDライトだけではなかったのです。掃除機の心臓ともいえるモーター周りにも不具合が見つかり、モーター関連の部品がいくつか交換されていました。

           

          修理明細書には以下のように記述がありました。

          『この度は…(中略)…ヘッドランプが点かない為、床用ノズルを交換させて頂きました。モーター電流特性不具合の為、モーターサポートゴムマエ、モーターサポーターAU、モーターファンUを交換させていただきました。動作テスト良好です。』

          えっ、これだけ?

           

          職業柄なのか、私の疑問と関心は、幾月も使用していない掃除機のLEDライトが壊れた原因にありました。「LEDライトはなぜ点灯しなくなったのか?」「モーター電流特性不具合とは何なのか?」過電流でも発生してLEDライトがボムしたのでしょうか?そもそも使用開始から日が経っていない掃除機なのにどうして不具合が起きてしまったのか?不具合の考えられる原因と詳細説明が修理明細書に記載されているものと期待しておりました。原因が誤った使用方法にあるならば、反省して掃除機の扱い方を改めます。突発的な過電流が原因であるならば、我が家の配電に問題があるのかもしれません。(我が家の築年は古いから気になる。)『ヘッドランプが点かない為、ノズル交換』って、そのまんまじゃないか。担当者はノズルを分解して原因を究明したのでしょうか。製品開発に役立てる実証データとして検証したと信じていますが、できればその結果を知らせていただきたかった。

           

          世間の大半は、無料でノズルが新品になったのだから、修理明細書に原因と詳細が記載されていなくても納得するのかもしれません。きっと私は面倒臭いことを言う消費者なのでしょう。(今回の件でクレームなんてつけていませんよ。心の声です。)

           

          現在の世の中では、物事に対する「なぜ?」が意外と蔑ろにされているのではないでしょうか。物事を表層的に捉えて納得させられる、または、分かった気になる場面は多く見られます。企業が消費者に事細かく説明をしたところで、“理屈っぽい”とか、“話が長い”とか、消費者は面倒臭がって見向きもしないかもしれません。あるいは、企業側の都合で説明があえて控えられているのかもしれません。企業秘密的な都合は兎にも角にも、消費者は「なぜだろう?」を普段から気にする癖を身につけたいものです。人の脳の活動は楽な方へ傾きがちです。考えることをさぼり続けると鋭い気づきを失ってしまいます。そして自分の気づかぬ内に、操作された情報に流されているものです。

           

          なーんも考えないとこんなことに…!?

           

           

           

           

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          気づける人になるために−AI時代に生き抜く力−

          2019.03.04 Monday 14:38
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            近頃のスーパーでは、セルフ化・半セルフ化されたレジが見られるようになりました。私がたまに行くスーパーには、半セルフ化されたレジが並ぶ中、一台だけお釣り渡しまで店員さんが行う従来式のレジがあります。時代に逆行するひねくれ者の私は従来式のレジに並びます。というのも、このレジを担当している店員さんの接客応対がすこぶる気持ちいいからです。

             

            常連と思しきおばあちゃんに何やら話しかけられると、「そうですね、おばあちゃん…今日は○○ですか?」なんて具合に自然な感じで言葉を返し、お父さんに抱っこされた幼児に見つめられると「バイバイ〜♪」とこれまた自然な笑みで見送ります。はきはきした声とにこやかな表情に「演劇志望の方なのかな」と私は勝手な想像すらしています。この店員さんの凄いところは“良く気づく”点です。重いものがあれば丈夫な袋を出してくれます。お客の両手がふさがっていれば買い物かごを荷物台まで素早く運んでくれます。支払い時に端数を合わせようと財布の中の小銭を探していると、そうしたお客の仕草を察知してお代を受け取る手のひらを出さずに待ってくれます。レジが空いていればレジへ向かいそうなお客に遠くからでも「こちらのレジへどうぞ」とサッと誘導してくれます。いずれも接客マニュアルに書いてあることかもしれませんが、自然な流れとここぞというタイミングにマニュアルを超えた技能と気持ちが感じられます。半セルフ化レジ担当の店員さんがバイト感溢れる接客対応であるのと比べても、この店員さんの素晴らしさが際立って見えます。

             

            この店員さんに備わっているもの、それは、お客ひとりひとりに対する観察眼と想像力なのでしょうか(上から目線で失礼!)。レジという定点から見える景色に潜む情報を読み取り行動に繋げていく。お客の行動と心理を読み、さらにはお客がスーパーに来て帰るまでのストーリーを想像する。“気づく”とは観察して考えることから生まれます。気づける人は、仕事を楽しく行い、自ら仕事を創り出せる人になれるでしょう。

             

             

            ■AIが人から仕事を奪う日はやってくるのか

             

            現在10代の子どもたちが社会の第一線で活躍する頃には、AIが既存の仕事の多くを人から奪うと囁かれています。明確な根拠なくメディアが煽る話を真に受けて怖がる必要はありません。そもそも思考と感情を持ち併せたアンドロイドのような“AI”は未だ存在しません。メディアが使用する“AI”という言葉は、正確に言うと情報検索・文字認識・音声認識・自然言語処理・画像認識等を行う“AI技術”を指しています。しかしながら、AI技術が日進月歩で進化していることは事実ですから、AIが人に代わって仕事を行ったり、社会の枠組みを変革したりすることは避けられないでしょう。

             

             

            ■AIができること−AIが学習する仕組み−

             

            AIが人より優れている面は、規則的な関係性を学習認識し、データに忠実かつ大量に情報を処理することが可能な点です。AIとは、計算で表現できるものであれば学習して処理することができる、いわば演算技術です。物流倉庫のオートメーション化・自動運転技術を伴ったタクシーの効率的配車・画像認識カメラと電子マネー決裁による無人店舗・ビッグデータを分析したマーケティング・保険や金融商品の需要予測と運用分析・病巣を発見する画像診断など、物流・運輸・流通・金融・医療などの業界でAIとの親和性が高く、AIが果たす役割は増大しそうです。

             

            AIに一つの処理作業を行わせるためには、膨大な教育データを作成して、これを一つずつ学習させなければなりません。これは“機械学習”と呼ばれています。AIを学習させる教育データは、何百万とか何億とか数が多ければ多いほど、AIの精度を上げられますが、教育データを設計作成するのは人間ですから大変な手間と費用がかかることになります。現在のAIブームに火をつけた“ディープラーニング”とは、教育データからAIがパターンを認識し、自律的に学習できる深層学習という技術です。ディープラーニングによりAIは加速度的に進化を遂げられるようになりました。それでもAIができることは、規則性があり計算で表現が可能な事象に限られます。

             

             

            ■いまだAIが到達できないこと

             

            AIに不可能な点は、“常識”や“心理”など人が感覚的に持っている非論理的事象を理解することです。

             

            先日とあるテレビ番組で、画像認識技術を利用して野良猫を撃退するAIロボット「ニャンニャウェイ」が紹介されていました。このロボットには、1万枚もの猫の画像を機械学習させてあります。近づく物体を猫か否か識別して、猫と判断すれば水をかけて撃退するそうです。番組では「ニャンニャウェイ」をだませるのかというテーマの下に検証実験を行いました。まず登場したのは、犬の写真です。見事に放水されず「ニャンニャウェイ」の勝利に終わりました。続いて、猫に変装した人間に反応するのかというお題で登場したのは、全身豹のコスプレに身を包んだ岩井志麻子先生です。豹が憑依したかのような動きを志麻子先生が見せると、「ニャンニャウェイ」もたまらず放水してしまいました。志麻子先生は、「私の女優生命がかかっている…」的なことをおっしゃっておりました。先生、さすがです。

             

            AIの機械学習とは、限られた条件の下、統計的に事象を記憶し認識する作業です。統計的な認識ですので、「ニャンニャウェイ」は、教育画像から得た情報とカメラに映った物体が一致するか否かの作業を繰り返しているにすぎません。野良猫とは何か、目の前で不可解な動きをする女性は何を企んでいるのか、という常識や意味を「ニャンニャウェイ」が考えているわけではないのです。志麻子先生のコスプレと動きがどんなに猫らしくとも、私たちにはそれが人間(志麻子先生)であることは一目瞭然です。それは、私たちが常識や意味を理解して判断できるからです。「ニャンニャウェイ」は、今回の敗戦を受けて精度を上げてくるでしょう。しかし、AIが常識を覚え、意味を理解して行動することはありません。少なくとも私たちと子どもたちが生きている時代には。

             

             

            ■人間が本来持ち合わせている能力を研ぎ澄ませ

             

            人は複雑な処理を一瞬にして判断できる生き物です。状況判断をして臨機応変な対応ができる、気づきと創造ができるという点では人間に分があります。物事を暗記して指示された通りに行動するだけならば、AIに任せた方が成果を期待できるでしょう。

             

            「気づく力」を養うには、普段から観察する眼と「なぜ」を考える癖を身につけることが役立ちます。視点と角度を変えて物事を眺めてみると新しい景色が広がるかもしれません。勉強や運動や趣味活動の中に、あるいは何気ない生活の中にも題材は転がっています。勉強に関して言えば、一問一答的な暗記やパターンを学習するスタイルではなく、疑問を起こし自らに問うスタイルで取り組むと「気づく力」が養われます。(知識を蓄積しなくていい訳ではありません。考える基礎力として知識は必要です。)意味を考えて行動する。私たちが忘れてはいけない、そして研ぎ澄まさなければならないことです。

             

             

             

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            テストから養う「分析眼」

            2019.02.05 Tuesday 18:00
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              2月に突入し、早いもので2019年も12分の1が過ぎ去りました。2月と言えば、「テスト」です。私は塾屋ですから、受験シーズン到来です!と受験の話題に触れるべきですが、私がもう一つ思い浮かべる2月のテストと言えば、F1の開幕前テストです。なんのことやら、まったくマニアックな話で恐縮です。

               

               

              ■F1のテスト−最先端の技術競争の現場−で繰り広げられるトライ&エラー

               

              地上波で放送されなくなって久しいF1レース(フォーミュラワンレース)です。3月の開幕に向けて各チームが技術を結集した新車を発表し、テストに奔走する時期が2月です。航空力学や流体力学を駆使した車体や究極のハイブリッドエンジンでもあるPU(パワーユニット)など、世界の名だたるメーカーや一流の技術者がその頭脳をフル回転させて開発に注力します。日本に絡むところでは、ホンダがPU(パワーユニット)を製作して、今年からトップチームの一つ、レッドブルF1チームともタッグを組みます。

               

              メディアはテストが行われるバルセロナへ押しかけ、最速タイムと周回数の多少に一喜一憂してチーム力の予想合戦に興じます。しかし、チームがテストで重視していることは、様々なセッティングを試しながら細かな問題点をどれだけ洗い出せるのかという点です。逆に言えば、何もトラブルが現れないと車を理解することができず、開幕戦に不安を残すことになります。

               

              F1復帰5年目を迎えるホンダは開発に苦戦し、これまでのシーズンで惨憺たる結果しか残せていません。それというのも、現代のF1エンジンは、ガソリンを燃焼する内燃機関(いわゆるエンジン)に加えて、ターボと2つの回生エネルギー機関によって構成されており、複雑なハイブリッドとなっているからです。2つの回生エネルギー機関とは、、燃焼で生じた排気熱を電気エネルギーに回生するMGU-H、ブレーキング時に放出される運動エネルギーを電気エネルギーに回生するMGU-K(市販車ではプリウスなどに搭載されている技術)です。こうした仕組みから近年はエンジンという呼び名ではなく、PU(パワーユニット)という名称が使われています。

               

              PU(パワーユニット)は、実車に載せる前にダイナモと呼ばれる施設で開発が行われます。ダイナモとは、研究所内でPU(パワーユニット)を単体の状態で稼働させる施設のことで、コンピュータのプログラムに沿って数値の計測が行われます。(イメージとしては、人工脳みそがガラス部屋の中に置かれ、コンピュータに接続されており、モニターに脳の稼働状態が表示されているといった感じでしょうか。)ダイナモでは、F1が開催されるサーキットの情報を入力することで実際に走行するときに近い状態を再現することが可能です。実際のコースをシュミレーションしながらパワー・トルク特性・エネルギーバランス・耐久性などの性能を評価します。ホンダは栃木県さくら市に最新鋭を誇る研究開発施設を所有しており、ここで日々F1パワーユニットの開発が進められています。

               

              研究所のダイナモ上で問題のなかったPU(パワーユニット)であっても、サーキットの走行テストの段階においてダイナモ上には現れなかったトラブルに見舞われることがあります。急加減速やハイスピードコーナーで発生する高いGフォース(慣性や遠心力)、路面の凹凸から伝わる振動や熱、PU(パワーユニット)以外の装置との干渉など、ダイナモでは再現できない環境や条件がPU(パワーユニット)に影響するからです。

               

              現場で発生したトラブルデータとPU(パワーユニット)を再び研究所に持ち帰り、分析して、原因を究明する。対策を施して開発の方向性を再検討する。こうした地道なトライ&エラーが最先端の技術の現場で繰り広げられています。

               

               

              ■テストと向き合って得られるもの

               

              いささか話の飛躍と思われるかもしれませんが、「テスト」という観点でF1の世界から勉学の世界へ目を向けてみます。両者のテストのスケールやレベルに違いがあるものの、テストの役割においては同じことが言えるのではないでしょうか。

               

              受験がこれまでの積み重ねを発揮する勝負の場であるとすると、日頃の模擬試験や小テストは、自己の不得意箇所や癖を洗い出し、対策と今後の勉強の方向性を検討するために活用されるべきものです。ところが、こうしたテストの活用をしている人は少ないように思います。テストの答案が返されると目がいくのは点数だけという人はいませんか。点数が良かったと安心して、悪かったと落ち込んで、答案用紙をポイしちゃってませんか。偉そうなことを言っている私も学生時代はその類の一人でした。テストの点数はこれまでの頑張りのバロメーターでもあり、良い点数は励みにもなりますから、点数に一喜一憂する気持ちはよく分かります。

               

              「点数の一喜一憂に終わらず、テストをちゃんと見直しています」と思った人もいるでしょう。では、“見直し”とは何を指すのでしょうか。

               

              テストの答案が返却されると、先生が黒板に解答や解法を書き、クラス全員がそれをだらだら書き写す風景がよく見られます。ここで行われているのは個々の問いに対する解き方をなぞる作業です。解答と解法を知り、分かった気になるかもしれませんが、そこに何の意味もありません。その問いの本質的な意味を理解していなければ、問い方を少し変えられると丸写しした解法は役に立たないからです。

               

              テストで重要なのは前述したようにまずは不得意箇所と解き方の癖を発見することです。間違えた箇所については、“なぜ”間違えたのか、原因を究明しなければなりません。「必要な知識の漏れや不足がなかったか」、「理解の思い違いがなかったか」、「問題文の読み込みが足りなかったか」、「共通した傾向はなかったか」など。逆に正解だった箇所に対しても、「完璧な理解の上で解けたのか」、「迷いやあやふやな点がなかったか」、「解答に辿り着くまでの道筋は正しかったか」などを究明する必要があります。「なぜ」・「どうして」の思考を繰り返し、情報を整理する。いわば、“分析する眼”が、テストの見直しに必要とされます。

               

              そもそも答案の内容はひとりひとり異なっていますから、クラス全員で行うことはナンセンスです。ひとりで答案と向き合わなければなりません。そうは言っても、「どのように分析すれば良いのか」、「今後の勉強の方向性をどのように計画すればよいのか」を知るには、全体を把握する客観性と経験が要求されます。そこで頼りにしたいのがプロの塾講師です。(塾の押し売りをしている訳ではありません。)プロの塾講師のアドバイスを借りながらも、まずは返却されたテストの解答と向き合ってみませんか。そうすることで“分析する眼”が養われ、それが学力向上への近道となりますから。

               

               

               

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              分かりやすさの落とし穴

              2019.01.29 Tuesday 17:51
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                ♪宵闇に 爪弾き 悲しみに雨曝し 花曇り♪

                ♪枯れた街 にべもなし♪

                ♪侘しげに鼻垂らしへらへらり♪

                ………(中略)………

                ♪あなたは(ふらふらふら)フラミンゴ♪

                ♪鮮やかな(ふらふらふら)フラミンゴ♪

                 

                失礼しました。何のことか分かる方も多いかと思います。米津玄師が歌う「フラミンゴ」の一節です。ニコニコ動画から徐々に頭角を現した若き才能は、ミュージックビデオの再生回数においても次々とヒットを飛ばしています。米津玄師の曲の魅力は、複雑に音声を重ね合わせた不協和音ともとれる曲調と、歌詞に埋め込まれた難解な言葉にあります。はじめて耳にすると難しい印象を受けるのですが、何度か聞いている内に頭の中で奏でられる心地よさというか、中毒性とも言える感覚に捉われます。もっと聞きたい、もっと知りたいと米津玄師ワールドに引き込まれていきます。

                 

                カラオケで米津玄師の曲を歌っている人たちの内どのくらいの人が歌詞の意味を理解しているのか分かりませんが、複雑で難解だからこそ、その深みの虜になるのだろうと思います。米津玄師の歌は噛めば味がでるスルメ曲とも言われているそうです。

                 

                 

                ■情報は軽くなる!?

                 

                現代社会の日常には分かりやすいもの、とっつき易いものが溢れています。テレビのニュース番組や情報番組・SNSに出回る情報の数々。アイキャッチの効くコピーや文言や画像を並べていかに人々の興味を引くか、制作する人の工夫とテクニックが試されます。

                 

                見ている人を分かりやすく引き込むには、白か黒か・AかBか・好きか嫌いかというような対立軸を設けることが有効です。例えば、情報番組では、タレントのスキャンダルや社会の出来事に対してセーフなのかアウトなのかを雄弁なコメンテーターたちが言い合います。視聴者は、テレビ局が巧みに敷いた構成に乗っかりながら茶の間から討論に加わる外野となるでしょう。新橋や銀座あたりで一般の人をインタビューした映像は、このプロズ&コンズ(是か非か)の議論に茶の間を一層巻き込んでいきます。最近は、視聴者のツイッターを画面テロップに流す手法も見られるようになりました。

                 

                私たちは無意識の内にこれらの情報に誘導されているかもしれません。そうなった時、私たちは限られた情報の中で分かったような気になりがちです。分かりやすい情報の氾濫は、情報に対する“慣れと愚鈍“を引き起こします。いつしか画面に流れる情報をスクロールする指の速さばかりが増していくでしょう。

                 

                 

                ■情報の「すきま」を読む大切さ

                 

                一つの出来事には様々な要因や背景が絡み合っているものです。誰にでも分かりやすくするために情報を単純化することは、事実を削ぎ落とすことでもあります。白と黒の間にはグレーがあるし、AとBの間にはA+やB−があるかもしれない、好きと嫌いの間には好きでも嫌いでもないが存在するかもしれません。単純化された情報の裏や間に目を向け、疑問を抱いて情報と向き合うには、知らないことを知り、分からないことを調べ、考える癖をつけておくことが大切です。難しいことを避けることも、思考停止することもやめませんか。一見とっつきの悪い難しいことにも、それを紐解くと面白いことや楽しいことが隠されているかもしれません。やわらかいケーキや口の中でとろける霜降り肉は美味しいけれど、堅い煎餅や煮干しもまた美味しく栄養となるように。

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                人が人であるために忘れてはいけないもの

                2019.01.18 Friday 15:06
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                  ■年末年始はドラマの一挙放送目白押し

                   

                  休みの日はこんな風に過ごしてみたい。それは朝から夜までドラマの世界に投身することです。休日の遅い朝、寝ぼけ眼をこすりながらソファにインしてテレビのリモコンをオンします。たまたま画面に映し出された懐かしいドラマのオープニングに魂が吸い寄せられます。顔も洗わず、パジャマのまま、トイレ以外はソファに体が張り付きます。第1話と第2話の合間にキッチンから食材を調達しましょう。第4話あたりから空想世界への中毒症状が見られます。アルコールも用意しましょう。第6話を過ぎたあたりには、食い散らかした飲食物の残骸が散乱しています。第8話あたりで日没を迎え、カーテンくらいは閉めなきゃと重い腰を上げます。最終話のエンディングが奏でられたら、充血した眼をこすり酒臭い息を吐きながらドラマの余韻に浸ります。脚本家にでもなったかのように「あのセリフの意味するものはこうじゃないか。」、当時の社会情勢を回顧しつつ、「現代なら展開はこうなるかな」などと批評と反省をします。一通り考え終わると、今日一日何も生産していない自分に対する嫌悪感と後悔が襲って来ます。あぁ駄目人間…。

                   

                   

                  ■2018年勝手にドラマ大賞ノミネートは

                   

                  年末の遅い朝、偶々選択したCSチャンネルで一挙放送されていたあるドラマに魂を奪われてしまいました。(ただし、掃除やら毎年年をまたぐ年賀状作りやらで忙しく、駄目人間な休日の願望は叶わず、録画して一日に1〜2本ずつ視聴しました。)ワンクールに4〜5本の最新連ドラを録画視聴しますが、2018年最大級のマイヒット作は年末年始の一挙放送でやってきました。今さら「高校教師(第1作目)」です。90年代に放映された大ヒットドラマですが、当時大学生だった私は一通り視聴したことがありませんでした。

                   

                  主役を演ずるのは、甘いマスクで90年代女子の心を鷲掴みにした真田広之とドラマ・CM・バラエティと大活躍したアイドル女優の桜井幸子です。テーマは、大学の研究員から女子高の生物教師に転任を命じられた、真田広之演じる羽村先生と、気難しい彫刻家の父を持つ、桜井幸子演じる女子高生二宮繭(まゆ)との禁断の恋話です。

                   

                  冬の日の朝、定期券の不正利用の疑いで駅員に呼び止められていた二宮を着任初日の羽村先生が庇ったところから、二宮の羽村先生に対する恋心が芽生えます。高校教師を腰掛けに考えていた羽村先生にとって、当初、二宮はおきゃんな生徒でしかありませんでした。その後、羽村先生は、打算的な婚約者の裏切りや大学研究室からの理不尽な排除の憂き目にあいます。絶望の縁にいた羽村先生に二宮は純粋無垢な想いを寄せ続けます。やがて羽村先生はそんな二宮に愛おしさを抱くようになります。ところが、二宮には娘に異常な性愛を抱く父親の存在が…。救いと無償の愛を求める二宮。世間の常識・二宮への愛と嫉妬・彼女の父親への憎悪の間に揺れる羽村先生。我を失った羽村先生は二宮の父親に手をかけてしまうも、娘の幸せを願った父親は自宅に火を放ち自殺に見せかけ自害します。殺人容疑をかけられた羽村先生と二宮はお互いの愛だけを携えて逃避行をするが…。以上が大まかなストーリーです。

                   

                   

                  ■高校教師にみる登場人物の真理

                   

                  いい年をしたおっさんが禁断の恋バナにキャーキャー胸を躍らせていたわけではありません。(一応、私はこの種の変態ではありませんが、一歩間違えると引かれますよね。)人間の心理をえぐるドラマには定評がある脚本家野島伸司先生の丁寧な心理描写に改めて感服させられ、“人の真理”というものについて考えさせられました。

                   

                  高校教師に登場する人物は、それぞれ真理に基づいた行動をとっています。それは、世間の常識や既成概念による正義だけでは計りきれないものです。二宮は、父親との歪な関係に窮屈さを感じ、無償の愛を羽村先生に受け止めてもらえることで自らの居場所を求めていました。一方で、憎悪にも似た感情を父親に持ちながらも、父親を見捨てられない思いも持ち合わせています。羽村先生は、田舎の堅実な家庭で真面目に育てられた秀才という設定です。世間の常識や立場に沿って生きてきた人生が人間のエゴや浅はかさによって狂わされる中で、心に正直な振る舞いを呼び起こすことに羽村先生は葛藤します。教師という立場もこれまでの堅実な人生も捨て去り、愛する者のために社会の掟を犯します。二宮の父親は穢れなき愛に飢え、娘への依存という歪な愛の中で生きています。しかし、羽村先生に殺人の罪を着せぬようにと迷うことなく自害の道を選んだのは、娘を愛していたからこそできたことです。単純な善悪の物差しをかざして、父親を二人の仲を引き裂くヒール役と捉えることはできません。

                   

                   

                  ■真理と正義の間

                   

                  「愛するものを守ること」・「誰かに必要とされること」を欲して行動することは人の真理です。真理があって正義があります。人が、人としての行いを正し、他者を受容し、社会を健全な共同体とするためにあるのが正義です。ところが、真理なくして正義が権力をもって人を支配し始めると、人は正義の名のもとに他者を排除し、自由の奪われた社会へ突き進みます。

                   

                  高校教師と同様に“人の真理”と言えば、国民的アニメのある名シーンを思い起こします。機動戦士ガンダムに登場するララァとアムロが敵として対峙した時の名場面です。時代の成り行きから戦いに巻き込まれてきたアムロに対してララァが言います。『なぜ、なぜなの?なぜあなたはこうも戦えるの?あなたには守る人も守るべきものもないというのに…。』戦う理由を問われて動揺するアムロは『では、ララァはなんだ?』と尋ねます。『私は、救ってくれた人のために戦っているわ。…(中略)…それは人の生きるための真理よ。』とララァは答えます。

                   

                  ガンダムが大ヒットした時代、夕方の再放送を欠かさず視聴し、翌日はガンダムの話で同級生と盛り上がったのは小学生の頃です。当時は、モビルスーツや戦闘シーンのカッコ良さに夢中で、アムロ擁する地球連邦軍が“いい者”、ジオン軍が“悪者”という単純な二元論的構図にしか受け取れませんでした。機動戦士ガンダムは、宇宙戦争の舞台を通して人の心理を丁寧に描写した奥の深いアニメーションです。小学生の頃、上記のララァとアムロの名シーンについて全く意味が分からず、地球連邦軍にとって強敵だったララァを目の上のたんこぶのように思っていました。そう、ガンダムを描いた富野由悠季さんらが言いたかったのは、「真理こそが人の生きる道なのだ」ということだったのです。小学生には難しすぎますよね。

                   

                   

                  ■自由で認め合える社会を実現するには

                   

                  最高裁判事の経歴を持つ刑法学者の故團藤重光氏は、正解の理由を法と規則にあることに求めてはならないと説いています。『社会の実情や変化を見ずして、法と規則で決まっているから』と物事を判断することは思考停止と同じことです。何も法律のようなお堅い世界の話に限らず、日常の世界においても校則や慣習的ルールを機械的に振りかざしてしまっている場面は多く見られるのではないでしょうか。法や規則が要らないと言っているのではありません。規則は人と社会が平穏でいられる為にあるはずです。規則が規則であるために、それを頑なに守ることに、盲目的に人々が必死になることは本末転倒なのです。正義は時代や国や宗教などの立場によって普遍ではありません。行き過ぎた正義が社会を窮屈なものにしないために、人の真理を理解して知性と想像力を働かせる努力を私たちは怠ってはいけません。

                   

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                  内申点という魔物―学校の多様なプラットホームを示す時代へ―

                  2019.01.09 Wednesday 17:06
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                    ■公立中高一貫校や中等教育学校など、学校の多様なプラットホームを示す時代へ

                     

                    シリーズコラム「内申点という魔物」の最終回は、多感な思春期の6年間が中学と高校という2つの枠組みに分離される公立学校の制度を見直してみます。3年ごとに入試に追われるよりも一貫した時間を生徒に与えることの方が教育的価値は大きいと考えます。その理由はコラム第7回の『思春期が将来の礎となる時間に』のパラグラフで述べた通りです。

                     

                     

                    ■都立高校の教育改革とその成果

                     

                    東京都では石原前都知事が“都立の復権”を旗印に掲げ、都立高校の中高一貫校化が進みました。現在では、6校の中等教育学校型と5校の併設型中高一貫校があります。週刊誌などのメディアは、難関大学進学者数の伸びにばかり注目して“都立の復権”を取り上げています。しかし、これらの中高一貫校は、従来の都立高校には見られなかった学校独自のカリキュラムや教育方針を打ち出しており、そこにこそ都立中高一貫校化の本質があります。例えば、元々都立の伝統校だった小石川中等教育学校は理数系教育に特化したカリキュラムを導入しています。面白いところでは、白鴎中学高校(併設型)は日本の文化伝統教育を特色としており、箏の授業を取り入れているそうです。今年度からは海外帰国・在京外国人生徒枠を設けて、国際的なバックグラウンドを持つ生徒の受け入れを試みています。最初の都立中高一貫校が創設されて13年が過ぎました。進学実績は着実に伸び、入学倍率は高止まりしています。一方で、多様性ある教育の実現については発展途上ですが、今後の展開に期待します。

                     

                     

                    ■“教育県”を自負する埼玉県の現状

                     

                    埼玉県では公立中高一貫校化が遅れています。現在、県立では伊奈学園(併設型)の1校しかありません。(さいたま市立では市立浦和高校に中学が併設されています。新たに大宮西高校が大宮国際中等教育学校として開校する予定です。ただし、受験資格があるのは、さいたま市に住民登録をしている人だけです。)

                     

                    1984年に初の総合選択制普通高校として創立された伊奈学園は7つの学系から構成されています。この学園の生徒は、7つの学系(人文・理数・語学・芸術・スポーツ科学・生活科学・情報経営)から所属する学系を選択し、180種類以上の選択科目から受講する科目を選択します。いわば、自分だけの時間割に沿って学校生活を送ることになります。従来の学校でいう担任クラスはあるものの、授業科目毎に受講する生徒の顔ぶれと教室が異なります。結果、生徒は周囲を気にせず、学びたいことに没頭できるため、個性ある生徒が多いそうです。互いの個性を尊重する雰囲気と生徒の目的意識の高さが生徒の自主性を育んでいます。2003年には中学が併設され、県内初の併設型中高一貫校となりました。

                     

                    ところが、埼玉県ではその後、中高一貫校を増設しようとする動きが凍結されています。背景には根強い公立ヒエラルキー特権意識があるものと思われます。教育の保守的な土壌は、埼玉県内の伝統校と言われる上位高校が軒並み男子校と女子校に分かれていることにも表れています。こうした公立高校の男女別校の文化は、埼玉県の他に北関東と東北において多く見られます。私立学校においても男女別校は散見されますが、少なくとも公立学校は、男女平等の時代に則した姿へ変容する時ではないでしょうか。

                     

                     

                    ■杜の都ナンバー校の大改革

                     

                    埼玉県と同様に、かつて男女別校の文化があった仙台の事例を見てみましょう。仙台ではナンバー校と呼ばれる男子校と女子校が長らく地域を代表する高校として君臨していました。ナンバー校とは、旧制高校・高等女学校を前身とする進学校で、「第一・第二」の漢数字を校名に冠しています。男子校では仙台一高と仙台二高が、女子校では宮城一女と宮城二女があります。宮城県教育委員会は県立高校の一律共学化の方針を打ち出し、2007〜2010年にかけてナンバー校の共学化を実施しました。この4校の内、宮城二女は仙台二華と校名変更して中高一貫校の道を歩んでいます。共学後、いずれの学校も高いレベルの教育が実践されています。

                     

                    実は、共学化の方針が打ち出された際にナンバー校の卒業生を中心に激しい反対意見が上がりました。反対意見の根底にあったものは“男子校(女子校)としての伝統”を固持したいという卒業生のプライドでした。宮城県内の政財界にはナンバー校出身者が遍く進出しています。ナンバー校出身という行き過ぎた誇りが特権階級的意識を産み出し、“伝統”の保護主義に傾倒させたのかもしれません。人間の真理として理解はできますが、伝統は、時代の潮流に寄り添い変化を遂げながら塗り重ねられていきます。埼玉県でも伝統に新しい色彩を塗り重ねるために、伝統校の共学化と中高一貫校化の動きが解凍されることを待ちわびています。

                     

                     

                    ■多様性のある教育が、変容する社会と向き合える子どもたちを創る

                     

                    公立学校の中高一貫校化や単位制総合普通科の導入は、横並びの公立学校に多様性を吹き込む突破口となる可能性を秘めています。ただし、公立学校の中高一貫校化が、加熱する中学受験の流れに拍車をかけるだけではその意味がありません。経済的な魅力だけが安易な中学受験の参戦を促し、更なる偏差値至上主義を助長するだけなら本末転倒です。“私立学校に負けない魅力ある公立学校づくりを”と第8回コラムにて既述しましたが、魅力とは偏差値と大学進学実績という物差しだけで測る魅力ではありません。内申点を軸にした画一的な教育から多様性を持たせた教育へ変革することに本質的な意義があります。

                     

                    公立中高一貫校へ進学する利点は、“思春期の時間”を得ることにあります。ゆとりある時間の下、普遍的な学びを行い、失敗を恐れず経験を積み、自分と異なる土壌を持つ他者と交わることに価値があるのです。未知と困難の時代に対処する術は、画一的な捉え方や秩序からは産み出されません。良識と想像力と勇気こそが、同調圧力に屈しない自由で柔軟な発想をもたらし、新たな社会を創造します。

                     

                    多種多様な方針を持った学校が増えることは、学びの選択肢を増やし、子どもたちの価値観を多様化させます。日本は横並びの文化が根強い国です。中学生は周囲の影響を受けやすい年頃ですから、恥ずかしさも伴い、周囲と歩調を合わせようとする嫌いがあります。自分の心に蓋をして、みんなと同じでいることに安心していませんか。恥ずかしいと思う気持ちは思春期において恥ずかしいことではありません。だからこそ、世の中の楽しいことを知り、未来の可能性に触れ、夢中になれるものを見つけてほしい。それを“自分の核”として成長することが未来の自分を創り出すのです。

                     

                     

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                    内申点という魔物─醜盥仔試は要らない!?―

                    2019.01.08 Tuesday 17:40
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                      内申評価制度がもたらす中学教育について考えてきたコラム「内申点という魔物」、第8回はこれからの高校入試と内申評価制度の在り方ついて論じていきます。

                       

                       

                      ■入試問題の多様な在り方を模索する時

                       

                      “高校入試は要らない!?”とは、いきなり衝撃的な見出しです。高校入試をなくすのではなく、一律な基準で行う従来の公立高校入試をなくしましょうということです。トップ校から下位校(偏差値的序列としての下位)まで同一の入試問題で篩(ふるい)にかけることを見直した方がいいのではないでしょうか。

                       

                      第3回のコラムで『入試は学校の特徴や個性を表す、いわば、学校から受験者に対するメッセージだ』と述べました。高校が教育方針を明確にして特徴を打ち出している場合は、高校独自問題を作成して必要とされる能力を問うことが効果的です。しかしながら、私立に比べて公立高校は万遍ない成績の良さを問う学校が未だ多いことも事実です。それでも昨今は、SGH(スーパーグローバルハイスクール)やSSH(スーパーサイエンスハイスクール)に認定された高校も少なくありません。逆説的な捉え方をすれば、高校独自問題の方式は、公立高校が教育方針やカリキュラムに特徴を打ち出す契機になるかもしれません。

                       

                      トップ校では大学進学熱の高い生徒に対してハイレベルな授業が展開されます(のはずです)。公立高校入試は教科書に準拠した標準的レベルの問題です。成績優秀者にとっては簡単で差がつきくいため、独自問題の採用により、トップ校の授業についていける能力を適正に測定できます。下位校では、中学までの基礎的な学習の欠落により授業の進行に困難が生じていると思われます。このような高校では、授業を展開する上で最低限の知識や理解を持ち合わせた生徒に入学してほしいはずです。ここで言う最低限の知識や理解は、高校のレベルによって異なるでしょう。公立高校入試は教科書レベルですが、下位校受験者にとっては、それでも難解なものです。(例えば、理科では理科そのものの知識を問う以前に問題文が長く、それなりの読解力が必要とされるものもあります。読解力の足りない受験生は問題文の意味を読み取れず、知識を習得しているにもかかわらず対処できません。)入学してくる生徒が身につけておいてほしい最低限の学力を測るには、学校独自の問題を用意することが適当です。または、レベルごとに数パターンの共通問題を作成しておき、どのパターンの問題を採用するかについて学校判断で決定する方法もあるでしょう。

                       

                      高校独自問題案に対しては、作成と採点作業の点で高校の負担が増えること、受験者へ過度な不安と競争を煽ること、を理由にした反対意見もあるでしょう。高校の負担に関しては、教科ごとに独自問題と共通問題を使い分ける方法をとることもできます。高校側が特に重要視したい科目だけに独自問題を採用すればいいのです。また、上記に挙げたように数パターンの共通問題を作成することで高校の負担を和らげることができます。受験者への過度な競争を煽るというのであれば、そもそも、多感な十代の時期に3年毎の入試を行うこと自体を止めればいいのです。

                       

                      都立高校では、上位校において学校独自の問題を作成しています。(英語のみ、数学のみなど教科毎に作成して都立共通問題と併用している学校もあります。)

                       

                       

                      ■内申評価の多様な活用を

                       

                      これまで散々問題視してきた内申評価制度はどうすれば良いのでしょうか。個人的な好き嫌いから言わせてもらえば、なくしてしまっていいんじゃないの、とバッサリ斬ってしまいたいところです。しかしながら、第3回のコラムで既述の通り、内申評価制度が高校浪人を出さない役割と中学生を偏りなく高校へ振り分ける役割を果たしていることを考慮して、もう少し折衷的な在り方を提案してみます。

                       

                      すべての公立高校が9教科の評価を必要とする理由はどこにあるのでしょうか。大学進学を目指す上位校において、美術も音楽も技術も優れていて体育の評価までもが“5”である必要性はありません。ちなみに私の通った高校では選択芸術科目制が採られており、美術と音楽と書道の内から一つだけ選択します。美術を選択した私が音楽と書道の授業を受けることは中学卒業より一度もありませんでした。実技科目における内申評価はその実力の信憑性に欠けるものです。絵を描くのが上手であり、楽器の演奏をこなし、製図も引けて木工作業も器用であり、著名な画家や音楽家について博識であり、運動万能なんて人、お目にかかったことがありません。実技科目の内申評価はあくまでも評価のための評価でしかないのです。

                       

                      高校は教育方針や高校卒業後の進路の傾向に照らして、高校入試に内申評価をどのように利用するかを検討するべきです。体育系に強みを発揮している高校なら、体育の内申評価に係数を乗じて高配点とする方法もあるでしょう。一般事務やサービス業の就職が多い高校ならば、国語と数学と社会の内申評価のみを利用する方法を採用していもいいかもしれません。先のコラムで登場した、入試問題の得点のみで合否を決する千葉県立千葉高校のような方式を上位校で導入してもよいでしょう。高校の特徴に合わせて高校毎に内申評価を柔軟に利用する制度へ変更することを提案します。

                       

                      こうした提案に対して必ず出てくる反対意見があります。「9教科すべてが高校入試に利用されないのであれば、特定の授業に身を入れない生徒が現れるのではないか。」というものです。確かに高校では、受験する大学に関係のない授業を真剣に受講しなかったり、内職したりする生徒はたくさんいます。大学受験の内容と高校の授業の内容はかけ離れている場合もあるからです。しかしながら、公立高校入試の内容は教科書に準拠していますので、そのような不安は取り越し苦労かもしれません。そもそも、仮にその授業が自分の高校入試に関係しない教科だとしても、魅力ある授業内容であれば生徒は耳を傾けるのではないでしょうか。

                       

                      多様な判断基準が多彩な人材を生み出します。多様な判断基準の導入は、公立高校側に高校の特色と個性を考えさせる契機となるはずです。私立に負けない魅力ある公立学校が増えることは、生徒の学び意識を向上させ、地域社会の活性にも役立ちます。

                       

                       

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