いにしえに想いを馳せる―夏旅第4回―

2018.09.13 Thursday 17:41
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    灯台下暗しとは、こういうこと。

     

     

    名古屋育ちなのに、最後に名古屋城を訪れたのは幼稚園生?それとも小学生?の時だったか。天守閣の木造化問題で騒がしい名古屋城へ行ってきました。尾張名古屋は城で持つ。金の鯱(しゃちほこ)は名古屋の誇りだぎゃあ。鉄筋コンクリートの天守閣は木造化目指して暫く拝観休止です。ということで、まずは6月に完成した本丸御殿へ。

     

     

    名物市長のおかげで雷雨の中でも本丸御殿は人の列。数十分行列に並んだあと(行列嫌いの私は既にテンションダウン)、ようやく観光客用玄関にて靴を脱ぎました。少々気になったのが、拝観時のある注意事項。“拝観客はリュックをおろし、前に抱えるもしくは、抱っこ状態で両肩にかける”とのこと。できたてほやほやの本丸御殿だもの、うっかり襖や屏風が傷つけられてはたまらない。あちらこちらに係員が立ち、不届き者がいないか目を光らせています。私は両手でリュックを前に持っていたのですが、一瞬片手で持ったところ、すぐさま怒られてしまいました。

     

     

     

    名古屋城天守閣と本丸御殿は、戦前には国宝に指定されていました。将軍家光公の上洛(京に行くこと)に合わせ、上洛殿(家光公が京への旅の途中で宿泊する施設)が増築されていることからお成り御殿の異名を持ちます。二条城と並ぶ武家風書院造の本丸御殿は、さすがは尾張徳川藩とうなずける優美な姿を見せていたそうです。天井や床の間や襖には江戸時代のトップ絵師集団「狩野派」の面々によって絢爛豪華な絵が描かれていました。しかし、名古屋大空襲で天守閣も本丸御殿も焼失してしまいました。

     

     

    焼失前の写真や図面などの資料が残っていたことが復元の助けとなりました。木材の選定や建築手法の再現にかなりの手間がかかっています。とりわけ襖絵や天井絵などは、最新技術を駆使して調査した後、専門家が苦心の末に再現したそうです。名物市長がこだわっているのは、当時の姿そのままに復元すること。おかげで、建物内は冷暖房無し、展示等の歴史博物館的要素は皆無です。インスタ映えを狙ってか、スマホで撮りまくっていた若者は「なんもねえな」と言い放ち、どんどん順路を進んでいくのでした。

     

     

    実は、前述のインスタ若者のことを言っていられない自分がいます。ピカピカの歴史的建造物というのは、どうも私の心に響かない。400年前の創建時だってもちろんピカピカだったんでしょうけどね。今回の名古屋城探訪で本丸御殿より私の興味を引いたのはこちらの写真。

     

    空堀に並べられているのは、本丸搦手馬出の石垣修復工事で解体された築石です。その数なんと4,000個だとか。調査と築石の修復終了後、積み直される予定です。まさに究極のジグソーパズル。今しかお目にかかれない光景ですね。

     

     

    石垣の積み方は時代によって異なります。戦乱期には工期がかけられませんから、石をシンプルに積み上げた石垣が主流です。江戸時代には世の中が安定し、土木技術も向上。20の地方大名が幕府(徳川家康)の命を受け、お金も人員も工期もかけた立派な石垣がつくられました。東海地方の各所から運ばれてきた石には、他国の石と区別するために刻印がつけられています。普請に命を懸けた人々のプライドでしょうか。加えて、石の積み上げ場所等を記した墨書という印もつけられています。現代でも4,000もの石を積み直すのは難解な工事であることを考えると、当時の人々の知恵と気概に感服します。

     

     

     

     

    NOと言えない封建時代にこんな難工事を請け負った人たちはどんな想いだったのでしょうか。他の国には負けたくない意地? 男としての矜持? 出世と報酬目当て? 労働時間は? 家族は? 現代の労働基準法に適合しない過酷な現場で血と汗を流した人々に想いを馳せる。歴史探訪の醍醐味は遺構に触れ、いにしえの人々の息づかいを想像すること。資料に忠実なピカピカ復元でもインスタ映えでもありません。

     

    category:歴史偉人探訪記 | by:理科塾comments(0) | -