そこにスピリットはあるか―夏旅第3回―

  • 2018.09.11 Tuesday
  • 13:46

夏だ、山だ〜!海だ〜!甲子園だ〜!。夏が猛暑すぎると定番外遊びのハードルがぐっと上がります。体力には自信がありませんから、お出かけ先は博物館系が専ら。インドアの夏全開です。

 

 

今回訪れたのは、岐阜県各務原市エーザイ川島工場内にある薬の博物館です。エーザイの創業者内藤豊次氏の「薬学・薬業の発展を伝える貴重な史資料が失われ、後世に悔いを残す恐れがある」との危惧から薬の博物館は開設されたました。広い敷地には薬用植物園や薬学書専門の図書館も併設されています。しかもすべて無料。1971年の開設ですから、私が物心ついた時には既に存在していたことになります。実家から車で40分ほどの場所ですが、恥ずかしながらつい最近まで知りませんでした。薬に関するあらゆる資料が揃っているのは全国でもここだけではないでしょうか。中でも昔の科学機器の展示は興味深い。古の人々がどのように医療や薬事に関わってきたのかを知る一日となりました。

 

 

 

博物館でグッときた一点はこちら。ご存知の方も多いと思います。アレクサンダー・フレミング、20世紀初頭に実験中の失敗から抗菌薬ペニシリンを発見した偉人です。ペニシリンの精製と実用化に成功したフローリーとチェインと共にノーベル生理学医学賞を受賞しています。フレミングは他にも唾液や卵白に含まれるリゾチームという抗菌物質をこれまた実験の失敗により発見。「失敗は成功の母」のお手本のようなお方です。

 

 

「失敗することを恐れるな」、「失敗も観察と検証を行うことで真実につながるのだ」等々の教訓が聞かれます。確かに、普通なら見逃していた些細な変化に気づいたフレミングの観察眼は見習うべきもの。しかし、フレミングが失敗を失敗で終わらせなかったのは、感染症から人々を救いたいというスピリットがあったからです。

 


フレミングは第一次大戦中に医師として戦傷兵の治療にあたっていました。衛生状態の悪い環境の下、戦傷兵が感染症を患い亡くなっていく姿を目の当たりにしていました。当時、感染症に対する特効薬はなく、苦しむ兵を看取ることしかできなかったことは、医師として辛い経験だったでしょう。戦後、フレミングは感染症に対する薬の研究を始めます。研究に没頭する彼の脳裏に亡くなっていった兵士たちの姿がよぎっていたことは想像に難くありません。「感染症に苦しむ人を救いたい」医師としてのスピリットが失敗を恐れず研究に立ち向かわせ、世紀の大発見につながったのです。

 

 

フレミングを知る中で出会ったのが、彼の研究にかけるスピリットの深さを感じるこの名言。“私は、人体が自然に備えている抵抗力の大切なことを決して忘れることができません。”

 

抗生物質の発見により人類が死に至る病を克服したかのように世間は考えました。しかし、フレミングは、薬に頼り自然に背いて生きる現代の風潮に苦言を呈していました。人間が本来もつ無限の力が失われてしまうことに危機を感じていたのです。フレミングの予言通り抗生物質の発見は耐性菌を出現させ、新たな感染症の恐怖を増しています。人類がどのように自然と向き合っていくのか、その課題は現在も進行中です。

 

 

あらゆる仕事や社会活動も誰かの役に立つこと、喜んでもらえることを目的としているはずです。手段や利益や与えられた結果を追い求めるあまり、本来の目的をお座成りにしてはいけません。子どもたちの学びを共に考え、彼らの成長を応援するのが理科塾の目的。その目的達成のために捧げるスピリットを忘れずに日々研鑽していきます。

 

 

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いにしえに想いを馳せる―夏旅第4回―

  • 2018.09.13 Thursday
  • 17:41

 

灯台下暗しとは、こういうこと。

 

名古屋育ちなのに、最後に名古屋城を訪れたのは幼稚園生?それとも小学生?の時だったか。天守閣の木造化問題で騒がしい名古屋城へ行ってきました。尾張名古屋は城で持つ。金の鯱(しゃちほこ)は名古屋の誇りだぎゃあ。鉄筋コンクリートの天守閣は木造化目指して暫く拝観休止です。ということで、まずは6月に完成した本丸御殿へ。

 

 

名物市長のおかげで雷雨の中でも本丸御殿は人の列。数十分行列に並んだあと(行列嫌いの私は既にテンションダウン)、ようやく観光客用玄関にて靴を脱ぎました。少々気になったのが、拝観時のある注意事項。“拝観客はリュックをおろし、前に抱えるもしくは、抱っこ状態で両肩にかける”とのこと。できたてほやほやの本丸御殿だもの、うっかり襖や屏風が傷つけられてはたまらない。あちらこちらに係員が立ち、不届き者がいないか目を光らせています。私は両手でリュックを前に持っていたのですが、一瞬片手で持ったところ、すぐさま怒られてしまいました。

 

 

名古屋城天守閣と本丸御殿は、戦前には国宝に指定されていました。将軍家光公の上洛(京に行くこと)に合わせ、上洛殿(家光公が京への旅の途中で宿泊する施設)が増築されていることからお成り御殿の異名を持ちます。二条城と並ぶ武家風書院造の本丸御殿は、さすがは尾張徳川藩とうなずける優美な姿を見せていたそうです。天井や床の間や襖には江戸時代のトップ絵師集団「狩野派」の面々によって絢爛豪華な絵が描かれていました。しかし、名古屋大空襲で天守閣も本丸御殿も焼失してしまいました。

 

 

焼失前の写真や図面などの資料が残っていたことが復元の助けとなりました。木材の選定や建築手法の再現にかなりの手間がかかっています。とりわけ襖絵や天井絵などは、最新技術を駆使して調査した後、専門家が苦心の末に再現したそうです。名物市長がこだわっているのは、当時の姿そのままに復元すること。おかげで、建物内は冷暖房無し、展示等の歴史博物館的要素は皆無です。インスタ映えを狙ってか、スマホで撮りまくっていた若者は「なんもねえな」と言い放ち、どんどん順路を進んでいくのでした。

 

 

実は、前述のインスタ若者のことを言っていられない自分がいます。ピカピカの歴史的建造物というのは、どうも私の心に響かない。400年前の創建時だってもちろんピカピカだったんでしょうけどね。今回の名古屋城探訪で本丸御殿より私の興味を引いたのはこちらの写真。

 

 

空堀に並べられているのは、本丸搦手馬出の石垣修復工事で解体された築石です。その数なんと4,000個だとか。調査と築石の修復終了後、積み直される予定です。まさに究極のジグソーパズル。今しかお目にかかれない光景ですね。

 

石垣の積み方は時代によって異なります。戦乱期には工期がかけられませんから、石をシンプルに積み上げた石垣が主流です。江戸時代には世の中が安定し、土木技術も向上。20の地方大名が幕府(徳川家康)の命を受け、お金も人員も工期もかけた立派な石垣がつくられました。東海地方の各所から運ばれてきた石には、他国の石と区別するために刻印がつけられています。普請に命を懸けた人々のプライドでしょうか。加えて、石の積み上げ場所等を記した墨書という印もつけられています。現代でも4,000もの石を積み直すのは難解な工事であることを考えると、当時の人々の知恵と気概に感服します。

 

 

NOと言えない封建時代にこんな難工事を請け負った人たちはどんな想いだったのでしょうか。他の国には負けたくない意地? 男としての矜持? 出世と報酬目当て? 労働時間は? 家族は? 現代の労働基準法に適合しない過酷な現場で血と汗を流した人々に想いを馳せる。歴史探訪の醍醐味は遺構に触れ、いにしえの人々の息づかいを想像すること。資料に忠実なピカピカ復元でもインスタ映えでもありません。

 

 

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