人が人であるために忘れてはいけないもの

2019.01.18 Friday 15:06
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    ■年末年始はドラマの一挙放送目白押し

     

    休みの日はこんな風に過ごしてみたい。それは朝から夜までドラマの世界に投身することです。休日の遅い朝、寝ぼけ眼をこすりながらソファにインしてテレビのリモコンをオンします。たまたま画面に映し出された懐かしいドラマのオープニングに魂が吸い寄せられます。顔も洗わず、パジャマのまま、トイレ以外はソファに体が張り付きます。第1話と第2話の合間にキッチンから食材を調達しましょう。第4話あたりから空想世界への中毒症状が見られます。アルコールも用意しましょう。第6話を過ぎたあたりには、食い散らかした飲食物の残骸が散乱しています。第8話あたりで日没を迎え、カーテンくらいは閉めなきゃと重い腰を上げます。最終話のエンディングが奏でられたら、充血した眼をこすり酒臭い息を吐きながらドラマの余韻に浸ります。脚本家にでもなったかのように「あのセリフの意味するものはこうじゃないか。」、当時の社会情勢を回顧しつつ、「現代なら展開はこうなるかな」などと批評と反省をします。一通り考え終わると、今日一日何も生産していない自分に対する嫌悪感と後悔が襲って来ます。あぁ駄目人間…。

     

     

    ■2018年勝手にドラマ大賞ノミネートは

     

    年末の遅い朝、偶々選択したCSチャンネルで一挙放送されていたあるドラマに魂を奪われてしまいました。(ただし、掃除やら毎年年をまたぐ年賀状作りやらで忙しく、駄目人間な休日の願望は叶わず、録画して一日に1〜2本ずつ視聴しました。)ワンクールに4〜5本の最新連ドラを録画視聴しますが、2018年最大級のマイヒット作は年末年始の一挙放送でやってきました。今さら「高校教師(第1作目)」です。90年代に放映された大ヒットドラマですが、当時大学生だった私は一通り視聴したことがありませんでした。

     

    主役を演ずるのは、甘いマスクで90年代女子の心を鷲掴みにした真田広之とドラマ・CM・バラエティと大活躍したアイドル女優の桜井幸子です。テーマは、大学の研究員から女子高の生物教師に転任を命じられた、真田広之演じる羽村先生と、気難しい彫刻家の父を持つ、桜井幸子演じる女子高生二宮繭(まゆ)との禁断の恋話です。

     

    冬の日の朝、定期券の不正利用の疑いで駅員に呼び止められていた二宮を着任初日の羽村先生が庇ったところから、二宮の羽村先生に対する恋心が芽生えます。高校教師を腰掛けに考えていた羽村先生にとって、当初、二宮はおきゃんな生徒でしかありませんでした。その後、羽村先生は、打算的な婚約者の裏切りや大学研究室からの理不尽な排除の憂き目にあいます。絶望の縁にいた羽村先生に二宮は純粋無垢な想いを寄せ続けます。やがて羽村先生はそんな二宮に愛おしさを抱くようになります。ところが、二宮には娘に異常な性愛を抱く父親の存在が…。救いと無償の愛を求める二宮。世間の常識・二宮への愛と嫉妬・彼女の父親への憎悪の間に揺れる羽村先生。我を失った羽村先生は二宮の父親に手をかけてしまうも、娘の幸せを願った父親は自宅に火を放ち自殺に見せかけ自害します。殺人容疑をかけられた羽村先生と二宮はお互いの愛だけを携えて逃避行をするが…。以上が大まかなストーリーです。

     

     

    ■高校教師にみる登場人物の真理

     

    いい年をしたおっさんが禁断の恋バナにキャーキャー胸を躍らせていたわけではありません。(一応、私はこの種の変態ではありませんが、一歩間違えると引かれますよね。)人間の心理をえぐるドラマには定評がある脚本家野島伸司先生の丁寧な心理描写に改めて感服させられ、“人の真理”というものについて考えさせられました。

     

    高校教師に登場する人物は、それぞれ真理に基づいた行動をとっています。それは、世間の常識や既成概念による正義だけでは計りきれないものです。二宮は、父親との歪な関係に窮屈さを感じ、無償の愛を羽村先生に受け止めてもらえることで自らの居場所を求めていました。一方で、憎悪にも似た感情を父親に持ちながらも、父親を見捨てられない思いも持ち合わせています。羽村先生は、田舎の堅実な家庭で真面目に育てられた秀才という設定です。世間の常識や立場に沿って生きてきた人生が人間のエゴや浅はかさによって狂わされる中で、心に正直な振る舞いを呼び起こすことに羽村先生は葛藤します。教師という立場もこれまでの堅実な人生も捨て去り、愛する者のために社会の掟を犯します。二宮の父親は穢れなき愛に飢え、娘への依存という歪な愛の中で生きています。しかし、羽村先生に殺人の罪を着せぬようにと迷うことなく自害の道を選んだのは、娘を愛していたからこそできたことです。単純な善悪の物差しをかざして、父親を二人の仲を引き裂くヒール役と捉えることはできません。

     

     

    ■真理と正義の間

     

    「愛するものを守ること」・「誰かに必要とされること」を欲して行動することは人の真理です。真理があって正義があります。人が、人としての行いを正し、他者を受容し、社会を健全な共同体とするためにあるのが正義です。ところが、真理なくして正義が権力をもって人を支配し始めると、人は正義の名のもとに他者を排除し、自由の奪われた社会へ突き進みます。

     

    高校教師と同様に“人の真理”と言えば、国民的アニメのある名シーンを思い起こします。機動戦士ガンダムに登場するララァとアムロが敵として対峙した時の名場面です。時代の成り行きから戦いに巻き込まれてきたアムロに対してララァが言います。『なぜ、なぜなの?なぜあなたはこうも戦えるの?あなたには守る人も守るべきものもないというのに…。』戦う理由を問われて動揺するアムロは『では、ララァはなんだ?』と尋ねます。『私は、救ってくれた人のために戦っているわ。…(中略)…それは人の生きるための真理よ。』とララァは答えます。

     

    ガンダムが大ヒットした時代、夕方の再放送を欠かさず視聴し、翌日はガンダムの話で同級生と盛り上がったのは小学生の頃です。当時は、モビルスーツや戦闘シーンのカッコ良さに夢中で、アムロ擁する地球連邦軍が“いい者”、ジオン軍が“悪者”という単純な二元論的構図にしか受け取れませんでした。機動戦士ガンダムは、宇宙戦争の舞台を通して人の心理を丁寧に描写した奥の深いアニメーションです。小学生の頃、上記のララァとアムロの名シーンについて全く意味が分からず、地球連邦軍にとって強敵だったララァを目の上のたんこぶのように思っていました。そう、ガンダムを描いた富野由悠季さんらが言いたかったのは、「真理こそが人の生きる道なのだ」ということだったのです。小学生には難しすぎますよね。

     

     

    ■自由で認め合える社会を実現するには

     

    最高裁判事の経歴を持つ刑法学者の故團藤重光氏は、正解の理由を法と規則にあることに求めてはならないと説いています。『社会の実情や変化を見ずして、法と規則で決まっているから』と物事を判断することは思考停止と同じことです。何も法律のようなお堅い世界の話に限らず、日常の世界においても校則や慣習的ルールを機械的に振りかざしてしまっている場面は多く見られるのではないでしょうか。法や規則が要らないと言っているのではありません。規則は人と社会が平穏でいられる為にあるはずです。規則が規則であるために、それを頑なに守ることに、盲目的に人々が必死になることは本末転倒なのです。正義は時代や国や宗教などの立場によって普遍ではありません。行き過ぎた正義が社会を窮屈なものにしないために、人の真理を理解して知性と想像力を働かせる努力を私たちは怠ってはいけません。

     

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    内申点という魔物―学校の多様なプラットホームを示す時代へ―

    2019.01.09 Wednesday 17:06
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      ■公立中高一貫校や中等教育学校など、学校の多様なプラットホームを示す時代へ

       

      シリーズコラム「内申点という魔物」の最終回は、多感な思春期の6年間が中学と高校という2つの枠組みに分離される公立学校の制度を見直してみます。3年ごとに入試に追われるよりも一貫した時間を生徒に与えることの方が教育的価値は大きいと考えます。その理由はコラム第7回の『思春期が将来の礎となる時間に』のパラグラフで述べた通りです。

       

       

      ■都立高校の教育改革とその成果

       

      東京都では石原前都知事が“都立の復権”を旗印に掲げ、都立高校の中高一貫校化が進みました。現在では、6校の中等教育学校型と5校の併設型中高一貫校があります。週刊誌などのメディアは、難関大学進学者数の伸びにばかり注目して“都立の復権”を取り上げています。しかし、これらの中高一貫校は、従来の都立高校には見られなかった学校独自のカリキュラムや教育方針を打ち出しており、そこにこそ都立中高一貫校化の本質があります。例えば、元々都立の伝統校だった小石川中等教育学校は理数系教育に特化したカリキュラムを導入しています。面白いところでは、白鴎中学高校(併設型)は日本の文化伝統教育を特色としており、箏の授業を取り入れているそうです。今年度からは海外帰国・在京外国人生徒枠を設けて、国際的なバックグラウンドを持つ生徒の受け入れを試みています。最初の都立中高一貫校が創設されて13年が過ぎました。進学実績は着実に伸び、入学倍率は高止まりしています。一方で、多様性ある教育の実現については発展途上ですが、今後の展開に期待します。

       

       

      ■“教育県”を自負する埼玉県の現状

       

      埼玉県では公立中高一貫校化が遅れています。現在、県立では伊奈学園(併設型)の1校しかありません。(さいたま市立では市立浦和高校に中学が併設されています。新たに大宮西高校が大宮国際中等教育学校として開校する予定です。ただし、受験資格があるのは、さいたま市に住民登録をしている人だけです。)

       

      1984年に初の総合選択制普通高校として創立された伊奈学園は7つの学系から構成されています。この学園の生徒は、7つの学系(人文・理数・語学・芸術・スポーツ科学・生活科学・情報経営)から所属する学系を選択し、180種類以上の選択科目から受講する科目を選択します。いわば、自分だけの時間割に沿って学校生活を送ることになります。従来の学校でいう担任クラスはあるものの、授業科目毎に受講する生徒の顔ぶれと教室が異なります。結果、生徒は周囲を気にせず、学びたいことに没頭できるため、個性ある生徒が多いそうです。互いの個性を尊重する雰囲気と生徒の目的意識の高さが生徒の自主性を育んでいます。2003年には中学が併設され、県内初の併設型中高一貫校となりました。

       

      ところが、埼玉県ではその後、中高一貫校を増設しようとする動きが凍結されています。背景には根強い公立ヒエラルキー特権意識があるものと思われます。教育の保守的な土壌は、埼玉県内の伝統校と言われる上位高校が軒並み男子校と女子校に分かれていることにも表れています。こうした公立高校の男女別校の文化は、埼玉県の他に北関東と東北において多く見られます。私立学校においても男女別校は散見されますが、少なくとも公立学校は、男女平等の時代に則した姿へ変容する時ではないでしょうか。

       

       

      ■杜の都ナンバー校の大改革

       

      埼玉県と同様に、かつて男女別校の文化があった仙台の事例を見てみましょう。仙台ではナンバー校と呼ばれる男子校と女子校が長らく地域を代表する高校として君臨していました。ナンバー校とは、旧制高校・高等女学校を前身とする進学校で、「第一・第二」の漢数字を校名に冠しています。男子校では仙台一高と仙台二高が、女子校では宮城一女と宮城二女があります。宮城県教育委員会は県立高校の一律共学化の方針を打ち出し、2007〜2010年にかけてナンバー校の共学化を実施しました。この4校の内、宮城二女は仙台二華と校名変更して中高一貫校の道を歩んでいます。共学後、いずれの学校も高いレベルの教育が実践されています。

       

      実は、共学化の方針が打ち出された際にナンバー校の卒業生を中心に激しい反対意見が上がりました。反対意見の根底にあったものは“男子校(女子校)としての伝統”を固持したいという卒業生のプライドでした。宮城県内の政財界にはナンバー校出身者が遍く進出しています。ナンバー校出身という行き過ぎた誇りが特権階級的意識を産み出し、“伝統”の保護主義に傾倒させたのかもしれません。人間の真理として理解はできますが、伝統は、時代の潮流に寄り添い変化を遂げながら塗り重ねられていきます。埼玉県でも伝統に新しい色彩を塗り重ねるために、伝統校の共学化と中高一貫校化の動きが解凍されることを待ちわびています。

       

       

      ■多様性のある教育が、変容する社会と向き合える子どもたちを創る

       

      公立学校の中高一貫校化や単位制総合普通科の導入は、横並びの公立学校に多様性を吹き込む突破口となる可能性を秘めています。ただし、公立学校の中高一貫校化が、加熱する中学受験の流れに拍車をかけるだけではその意味がありません。経済的な魅力だけが安易な中学受験の参戦を促し、更なる偏差値至上主義を助長するだけなら本末転倒です。“私立学校に負けない魅力ある公立学校づくりを”と第8回コラムにて既述しましたが、魅力とは偏差値と大学進学実績という物差しだけで測る魅力ではありません。内申点を軸にした画一的な教育から多様性を持たせた教育へ変革することに本質的な意義があります。

       

      公立中高一貫校へ進学する利点は、“思春期の時間”を得ることにあります。ゆとりある時間の下、普遍的な学びを行い、失敗を恐れず経験を積み、自分と異なる土壌を持つ他者と交わることに価値があるのです。未知と困難の時代に対処する術は、画一的な捉え方や秩序からは産み出されません。良識と想像力と勇気こそが、同調圧力に屈しない自由で柔軟な発想をもたらし、新たな社会を創造します。

       

      多種多様な方針を持った学校が増えることは、学びの選択肢を増やし、子どもたちの価値観を多様化させます。日本は横並びの文化が根強い国です。中学生は周囲の影響を受けやすい年頃ですから、恥ずかしさも伴い、周囲と歩調を合わせようとする嫌いがあります。自分の心に蓋をして、みんなと同じでいることに安心していませんか。恥ずかしいと思う気持ちは思春期において恥ずかしいことではありません。だからこそ、世の中の楽しいことを知り、未来の可能性に触れ、夢中になれるものを見つけてほしい。それを“自分の核”として成長することが未来の自分を創り出すのです。

       

       

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      内申点という魔物─醜盥仔試は要らない!?―

      2019.01.08 Tuesday 17:40
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        内申評価制度がもたらす中学教育について考えてきたコラム「内申点という魔物」、第8回はこれからの高校入試と内申評価制度の在り方ついて論じていきます。

         

         

        ■入試問題の多様な在り方を模索する時

         

        “高校入試は要らない!?”とは、いきなり衝撃的な見出しです。高校入試をなくすのではなく、一律な基準で行う従来の公立高校入試をなくしましょうということです。トップ校から下位校(偏差値的序列としての下位)まで同一の入試問題で篩(ふるい)にかけることを見直した方がいいのではないでしょうか。

         

        第3回のコラムで『入試は学校の特徴や個性を表す、いわば、学校から受験者に対するメッセージだ』と述べました。高校が教育方針を明確にして特徴を打ち出している場合は、高校独自問題を作成して必要とされる能力を問うことが効果的です。しかしながら、私立に比べて公立高校は万遍ない成績の良さを問う学校が未だ多いことも事実です。それでも昨今は、SGH(スーパーグローバルハイスクール)やSSH(スーパーサイエンスハイスクール)に認定された高校も少なくありません。逆説的な捉え方をすれば、高校独自問題の方式は、公立高校が教育方針やカリキュラムに特徴を打ち出す契機になるかもしれません。

         

        トップ校では大学進学熱の高い生徒に対してハイレベルな授業が展開されます(のはずです)。公立高校入試は教科書に準拠した標準的レベルの問題です。成績優秀者にとっては簡単で差がつきくいため、独自問題の採用により、トップ校の授業についていける能力を適正に測定できます。下位校では、中学までの基礎的な学習の欠落により授業の進行に困難が生じていると思われます。このような高校では、授業を展開する上で最低限の知識や理解を持ち合わせた生徒に入学してほしいはずです。ここで言う最低限の知識や理解は、高校のレベルによって異なるでしょう。公立高校入試は教科書レベルですが、下位校受験者にとっては、それでも難解なものです。(例えば、理科では理科そのものの知識を問う以前に問題文が長く、それなりの読解力が必要とされるものもあります。読解力の足りない受験生は問題文の意味を読み取れず、知識を習得しているにもかかわらず対処できません。)入学してくる生徒が身につけておいてほしい最低限の学力を測るには、学校独自の問題を用意することが適当です。または、レベルごとに数パターンの共通問題を作成しておき、どのパターンの問題を採用するかについて学校判断で決定する方法もあるでしょう。

         

        高校独自問題案に対しては、作成と採点作業の点で高校の負担が増えること、受験者へ過度な不安と競争を煽ること、を理由にした反対意見もあるでしょう。高校の負担に関しては、教科ごとに独自問題と共通問題を使い分ける方法をとることもできます。高校側が特に重要視したい科目だけに独自問題を採用すればいいのです。また、上記に挙げたように数パターンの共通問題を作成することで高校の負担を和らげることができます。受験者への過度な競争を煽るというのであれば、そもそも、多感な十代の時期に3年毎の入試を行うこと自体を止めればいいのです。

         

        都立高校では、上位校において学校独自の問題を作成しています。(英語のみ、数学のみなど教科毎に作成して都立共通問題と併用している学校もあります。)

         

         

        ■内申評価の多様な活用を

         

        これまで散々問題視してきた内申評価制度はどうすれば良いのでしょうか。個人的な好き嫌いから言わせてもらえば、なくしてしまっていいんじゃないの、とバッサリ斬ってしまいたいところです。しかしながら、第3回のコラムで既述の通り、内申評価制度が高校浪人を出さない役割と中学生を偏りなく高校へ振り分ける役割を果たしていることを考慮して、もう少し折衷的な在り方を提案してみます。

         

        すべての公立高校が9教科の評価を必要とする理由はどこにあるのでしょうか。大学進学を目指す上位校において、美術も音楽も技術も優れていて体育の評価までもが“5”である必要性はありません。ちなみに私の通った高校では選択芸術科目制が採られており、美術と音楽と書道の内から一つだけ選択します。美術を選択した私が音楽と書道の授業を受けることは中学卒業より一度もありませんでした。実技科目における内申評価はその実力の信憑性に欠けるものです。絵を描くのが上手であり、楽器の演奏をこなし、製図も引けて木工作業も器用であり、著名な画家や音楽家について博識であり、運動万能なんて人、お目にかかったことがありません。実技科目の内申評価はあくまでも評価のための評価でしかないのです。

         

        高校は教育方針や高校卒業後の進路の傾向に照らして、高校入試に内申評価をどのように利用するかを検討するべきです。体育系に強みを発揮している高校なら、体育の内申評価に係数を乗じて高配点とする方法もあるでしょう。一般事務やサービス業の就職が多い高校ならば、国語と数学と社会の内申評価のみを利用する方法を採用していもいいかもしれません。先のコラムで登場した、入試問題の得点のみで合否を決する千葉県立千葉高校のような方式を上位校で導入してもよいでしょう。高校の特徴に合わせて高校毎に内申評価を柔軟に利用する制度へ変更することを提案します。

         

        こうした提案に対して必ず出てくる反対意見があります。「9教科すべてが高校入試に利用されないのであれば、特定の授業に身を入れない生徒が現れるのではないか。」というものです。確かに高校では、受験する大学に関係のない授業を真剣に受講しなかったり、内職したりする生徒はたくさんいます。大学受験の内容と高校の授業の内容はかけ離れている場合もあるからです。しかしながら、公立高校入試の内容は教科書に準拠していますので、そのような不安は取り越し苦労かもしれません。そもそも、仮にその授業が自分の高校入試に関係しない教科だとしても、魅力ある授業内容であれば生徒は耳を傾けるのではないでしょうか。

         

        多様な判断基準が多彩な人材を生み出します。多様な判断基準の導入は、公立高校側に高校の特色と個性を考えさせる契機となるはずです。私立に負けない魅力ある公立学校が増えることは、生徒の学び意識を向上させ、地域社会の活性にも役立ちます。

         

         

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        内申点という魔物А住彌婀が将来の礎となるには―

        2019.01.07 Monday 10:27
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          内申評価が中学3年間とその後に及ぼす影響についてこれまで綴ってきました。第7回のコラムでは、中学3年間が思春期の子供たちに与える時間的価値とそのあるべき姿について考えていきます。

           


          ■公立中学3年間は公立高校進学の準備期間なのか

           

          公立中学3年間とはどんな時間なのでしょうか。大人の入り口に立つ多感な時期に内申点を中心に中学生活が展開されることについてこれまでの回で述べてきました。公立中学が高校進学の準備期間として存在するだけならば、その在り方を見直さなければなりません。

           

          公立高校入試対策を専門とする学習塾では、小学6年生に向けた中学準備コースを設けています。中学の予習的な学習は、一気に難しくなる中学の学習内容へのアレルギーを減らします。学習塾にとって小学生の取り込みは経営戦略的な意味もあります。

           

          しかしながら、公立高校入試に不可欠な内申点はスタートダッシュが大切です。中学1年の内申点から公立高校入試の対象となりますから、とりわけトップ公立校を目指す生徒は、3年に渡り校内上位を走り続けなければなりません。漠然と不安を抱える保護者と子どもの心理は、こうした準備コースを掲げる学習塾に向かいます。公立中学の入学は、同時に公立高校進学に向けた内申点取り競争の始まりでもあるのです。

           

          中学入学時から定期テストで失敗をせずに走り続けなければならないことに教育的な意味があるのでしょうか。中学3年になってから能力が開花して成績を伸ばしたとしても、中学1・2年の内申点が足を引っ張ってしまうとすれば、制度自体に問題があると言えます。スタートダッシュができなかった生徒が這い上がってくるための門戸が閉じられてはいけません。

           

           

          ■思春期が将来の礎となる時間に

           

          多感な思春期にあたる子どもたちは、1〜2か月という短いスパンでやってくる定期テストに照準を合わせて時間を送るのではなく、長いスパンで自分に肥やしを与えることにその時間を充てるべきです。

           

          十代前半は、自分を見つめ、“生きること”・“社会”・“性”などを意識し、哲学し始める時期です。だからこそ、この時期に経験したことや人との出会いが“大人になる自分”に大きく影響します。学校がかざす物差しだけに頼ることは、可能性や個性の芽を知らず知らずのうちに摘み取ることになりかねません。

           

          もちろん、学力を積み上げることは大切ですが、内申点のような限定的な学力ではなく、普遍的な真の学力であるべきです。そうあるために学校生活や学外の活動は、高校入試だけを見据えたものではなく、思春期の瞬間にしか体験できないものであってほしいと願います。

           

          小学生と異なり、中学生は親の加護から少しずつ解き放たれていきます。自らの意思で考え行動できるようになる思春期は、“半分大人”として自分の眼を持ち始める時期です。学外の活動や趣味や遊びにおいて没頭するものがあることは将来の礎となるかもしれません。そのための時間が必要なのです。定期テスト対策の塾や強制される部活動に疲れ果てては、貴重な時間が過ぎゆくばかりです。(以前の回でも述べましたが、主体的に部活動に励んでいるなら別です。)

           

          もう思い切って、内申評価中心主義を止めてしまいましょう。

           

          では、内申評価を中心にした制度から脱却するには、どのような方策があるのでしょうか。

          次回コラムに続きます。

           

           

           

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          内申点という魔物Α宗汎のいい子”の落とし穴―

          2018.12.31 Monday 14:14
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            第4回・第5回コラムでは、内申点という限定的な学力の物差しが、子どもたちを学力別カテゴリーに振り分け、学力の優劣意識を刷り込む弊害について取り上げてきました。この年齢期に優秀な成績を残せなかった生徒が、劣等意識を打ち砕けば、能力を開花させられることは既述の通りです。今回は、内申評価の壁を上手に上ってきた“頭のいい生徒”に潜む落とし穴について綴っていきます。

             

             

            ■スタートダッシュは有利だけれど

             

            早い段階から成績上位を保ってきた“頭のいい生徒”は、脳の発達における抽象概念の理解と組織化が早く始まったタイプに多くみられます。彼らは、中学程度の学習内容であれば難なく理解できたことでしょう。もちろん、スタートダッシュが早いことは、学習面で有利に働きます。彼らは勉強へのアレルギーがなく、学ぶことの楽しさを知っているからです。このまま偏差値の高い高校・大学と進学して、そこで優秀な同級生と出会い、影響を受け合い、高い目標を設定することができるでしょう。

             

            一方で、このような“優等生”は勉強ができるが故に将来の可能性を自ら狭めてしまう危険性を孕んでいます。

             

             

            ■優等生であり続けることが目標となってしまう

             

            成績上位を維持してきた生徒は、何らかの要因で成績が下降してしまった時、現状を受け入れられず、自分を否定されたかのように落ち込んでしまう場合があります。いわゆる゛挫折に弱い”と言われるケースです。

             

            このようなケースは、中学の成績優秀者が公立トップ校へ進学した場合に起こりがちです。様々な学力の同級生が混在していた公立中学と異なり、公立トップ校は各中学から成績優秀者が集まった環境です。仮に一学年に300人の生徒がいたとすると、校内テストで100番や200番となることは充分あり得ます。トップ校での100番は、冷静に考えると悪い順位ではないかもしれません。ところが、これまで一桁の順位を見慣れてきた生徒が突如三桁の順位を目の当たりにして、自尊心が砕かれるのも無理はありません。

             

            “成績の良い私”と周囲からも見られ、自分自身もそれを当たり前だとする思い込みが、不要なプライドを生んでしまうと厄介です。不要なプライドは、精神的な強さが育まれることを阻害しがちです。若さの特権は、比較的責任を伴わず、様々な経験と失敗ができることです。挫折知らずで優秀であり続ける人は、失敗や転落を恐れるあまり、優秀と評価され続けること自体を目標としてしまいがちです。そうなることは、未開の地への挑戦を遠ざけ、いつしか自分を見失ってしまうことに繋がります。

             

             

            ■世間の価値観に囚われるな

             

            成績優秀な生徒が周囲からの期待に応えてきたことは、同時に世間の価値観を信じて疑わずにやってきたことでもあります。彼らは、学校で“正しい”とされたことを真面目に守り実践してきたことで褒められてきた経験があります。どのように振る舞い、何をすれば大人が自分を評価するのかを繊細に読み取ることができます。極論を言えば、大人や世間に評価されることが自らの行動の指針となってしまう場合があるのです。

             

            未来や進路は、世間の価値観に照らして選ぶものではありません。優等生が将来の夢として掲げるものの一つに医師があります。もちろん、医師という職業は社会への貢献度が高くやりがいのある仕事です。医療への問題意識や志から医師を目指しているのならば、誰からも賞賛されることでしょう。しかし、医師が世間の価値観に照らしてステータスの高い職業であるという理由だけから選択したのであれば、どうでしょうか。私なら患者としてそのような医師に診断されたくありません。

             

            自分が夢中になれることや自分の可能性を追い求め行き着いた場所が自分の居場所となるはずです。他人と比較することでアイデンティティを保つことは、自分らしくあることを難しくします。人と比べず、世間の価値感に惑わされず、自分の心に確固とした物差しを持つことが自らの能力を最大限に発揮する道です。せっかくの能力を世間の価値観の優劣競争に費やしては勿体ない限りです。

             

             

            ここまで6回にわたり、公立中学の内申評価制度がもたらす役割と弊害について述べてきました。次回コラムからは、「多感な思春期が将来の礎となる環境はどうすれば実現できるのか」を考えてみます。

             

             

             

             

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            内申点という魔物ァ集立高校ヒエラルキーと呪縛―

            2018.12.30 Sunday 16:12
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              ■公立高校ヒエラルキーとステータス

               

              どの地域でも公立高校は、内申評価を基準にしたピラミッド階層を形成しています。地域の一番手校は○○高校で、二番手校は▲▲高校だとの言い方を聞いたことがある人は多いのではないでしょうか。第1回・第3回コラムで既述の通り、公立高校入試はほとんどの高校が同一の試験内容と判断基準で実施されますから、私立高校以上にヒエラルキーが形成されるわけです。

               

              地方都市に行くと、人の学力の度合いを示すにあたり出身大学名よりも出身高校名を持ち出す場面を見かけることがあります。九州では、出身高校の同窓会の結束が固く、紙面一面に高校の同窓会のお知らせが掲載されます。お知らせには、「○○年卒 株式会社××取締役 佐藤太郎 ▲▲年卒 ●×税理士事務所 鈴木花子」のように同窓生の卒年・肩書と共に氏名が大きく掲載されていて驚いたことがあります。こうしたことは、地方都市において全国区の大学名よりも地域の公立高校ヒエラルキーの方がステータスを放っている証です。

               

               

              ■カテゴライズは刷り込みの始まり

               

              中学3年間の内申評価により、子どもたちは、内申ヒエラルキーで構成される公立高校のいずれかにカテゴライズされてしまいます。似たり寄ったりの成績の集団にカテゴライズされることにより、子どもたちは自分が勉強ができる組なのか・まあまあ組なのか・できない組なのかを刷り込まれることになります。

               

              「私立中学入試でも偏差値を基準とした子どもたちのカテゴライズが行われるから同じではないか」という意見もあるでしょう。確かに中学受験塾に通う子どもたちは熾烈な競争を煽られ、偏差値で人を判断する考え方を持ってしまう弊害も持ち合わせています。また、私立一貫校によっては予備校のように徹底した偏差値教育を行い、進学実績を経営の糧としている学校もあります。その一方で、私立一貫校は校風や教育方針が公立よりも多様であり、私立一貫校の生徒たちは、6年の一貫した時間の中で偏差値教育以外の基準や世界を見つけられる可能性があります。

               

              高校生になって具体的な進学先を決める際に、「自分の高校からだとこのあたりの大学が限界かな」と漠然と考えたことはありませんか。大学受験は基本的に実力勝負ですから、どこの高校であっても本人のやる気と頑張り次第で難関大学に合格することは可能なはずです。実際に底辺校と言われる高校から一念発起して難関大学に進学した生徒はいるでしょう。しかし、残念ながらこれは稀有なケースです。確かにヒエラルキー中位・下位の高校には相対的に優秀な生徒が少ないため、進学実績が高くありません。しかし、前回のコラムで脳の発達について述べたように15歳以降に勉強の能力が開花する生徒は少なくありません。自分の能力からではなく、通っている高校の位置づけから進学先を決めることは自らの可能性を失うことでもあります。

               

              自分は勉強ができない組だ(もしくは苦手だ)という思い込みが、能力の開花と将来の選択肢を奪ってしまっているとしたら…。

               

              中学3年間の内申点が大人になるまで人生のレールを敷き続けてはいけません。人生は80年とも100年とも続くかもしれないのですから。

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              内申点という魔物ぁ宗汎のいい子・悪い子”は思い込み―

              2018.12.29 Saturday 14:40
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                ■内申評価が作り出す゛頭のいい子・悪い子”の思い込み

                 

                公立高校に進学するのならば、中学入学当初より定期テストや内申点とにらめっこし続けなければならないことは前回までに既述の通りです。2〜4か月ごとに生徒たちは、校内における自己学力の相対的な位置を確認することとなります。早い段階で定期テストの波に上手く乗れた生徒は、“頭のいい生徒”として周囲から認識され、中学生活を過ごすこととなります。

                 

                小学校まではテストや通知表はあっても、学力ランキングという明確な指標はありません。誰も答えられない算数の問題をすらすらと解答するだとか、物知りだ、といったことで周囲から“なんとなく頭のいい同級生”と認識される程度です。(私立中受験塾に通っている場合は、これに当てはまりません。)

                 

                中学で初めて受ける校内一斉の定期テストは、学力面における相対的な自己の位置づけを初めてつまびらかにする機会です。小学校までは、運動ができる子・面白い子・目立つ子・影の薄い子といった“キャラ”によって人気が左右され、クラス内での人間関係が出来上がっていました。しかし、中学からは定期テストによる“学力ランキング”という新たな要素が加わり、“キャラ”や人間関係が再構築されるようになります。自らの思い込みに加えて先生や周囲からの見方や期待も受けることで、勉強ができる子らしい振る舞い・勉強ができない子らしい?振る舞いを自然と演ずるようになりがちです。

                 

                テスト結果でランキングがつけられること自体が悪いのではありません。例えば、徒競走や持久走大会において順位をつけない学校が近年増えていますが、順位をつけないことに個人的な違和感を感じます。競い合い頑張った結果を順位として受け入れることは、上位の子にとっても下位の子にとっても教育的に意味があるはずです。たとえ話ですから、徒競走や持久走大会の順位付けについてこの場で議論するつもりはありません。ただ、どんな分野でも人には得意不得意があります。それを知ることは大切ですし、奮起して順位を上げることの達成感やその楽しさを感じ得ることには意味があります。

                 

                校内定期テストという限定的な世界において、出来が悪かった生徒が“自分は勉強ができない”と、逆に優秀だった生徒が“自分は勉強ができる”と思い込んでしまうことが危険なのです。

                 

                 

                ■勉強ができないと決めつけるには早すぎる

                 

                発達心理学者のジャン・ピアジェは、年齢と脳の発達段階の関係における理論を唱えています。この理論に基づき学習指導要領も策定されており、「何年生で何を学ぶのか」ということには理論の裏付けがあるのです。例えば、11歳あたりを境に抽象的な概念を理解し始めるようになると言われています。11‐15歳の時期は、この抽象的概念の理解力においてまさに発達中の段階です。これを受けて中学の学習内容は、数学の数式や理科の化学式など抽象的な概念の理解を必要とするものが増えていきます。

                 

                例えば、中学校で登場するx・yを利用した方程式の学習は、抽象的な概念の理解を必要とする典型です。小学生のうちは具体的にイメージできる範囲内で論理的な思考ができる段階にあります。小学生にとって、xとyの方程式を使うよりもつるかめ算や和差算を使った方が理解しやすいことには根拠があるのです。(方程式に慣れた大人には、逆につるかめ算や和差算の方が難しく感じられることもありますが…。)

                 

                当然のことながら、この段階の発達には個人差が見られます。脳の発達段階が早い子はスタートダッシュが良く、テストの結果が優れていたとしても、その後の伸びがどうなるかは分かりません。逆に、成績が優れていないとしても、それは、脳の発達段階が人より少し遅めであることが起因しているだけかもしれません。

                 

                中学生は、大人と子どもの端境期だと言われています。これは、脳の発達が抽象的概念の理解や組織化の段階にあることによるものです。つまり、この段階にある中学生が大人社会の矛盾を無性に強く感じたり・自分の存在意義を悩んだり・反抗期を迎えたりするのも抽象的思考という脳の発達段階によるものなのです。思春期に見られるこれらの行動はいずれも正常そのものです。「最近、子どもが何を考えているのか分からなくなって不安だ」という親御さんは安心して大丈夫です。

                 

                話が脱線したので元に戻します。もし、中学の成績が優れていないからといって"自分は勉強ができない・苦手だ・嫌いだ”と考えることは早計です。あなたの能力はあと数年で始動するかもしれません。勉強ができないと思い込むことで、”勉強ができない人の道”を選ぶことは勿体ないし、馬鹿々々しくも思えます。たかだか13-15歳において学力面のキャラを決定することは損でしかありません。13-15歳の時点での成績(それも主観入り混じる内申点)がその後の勉強の能力を示しているわけではありません。

                 

                 

                ■能力と開花の時期は人それぞれ

                 

                学校教育では一律に物事を進めようとします。能力が開花する時期には個人差があります。学校教育で一律に引かれたスタートラインが今のあなたに合っていないだけかもしれません。今は、教科書の字がハングル語やアラビア語のように見えているとしても、先生の話が何かの呪文のように聞こえているとしても、勉強の能力がないとは誰にも断言できません。

                 

                勉強の能力とは内申書に表される5教科(または9教科)が万遍なくこなせることだけではありません。例えば、数学や英語を苦手と感じていても文章力だけは尖った才能があることも勉強の能力です。ひょっとしたら優秀な編集者や新聞記者あるいは小説家になれる可能性だってあります。洋服や流行に興味がある人は、色彩やデザインに鋭い観察眼を持ち続けていくことで能力が開花するかもしれません。デザイナーやスタイリストになれる日がやってこないとは限りません。

                 

                悩んでもよし、立ち止まってもよし、ぼーっとしても構いません(チコちゃんに叱られるかもしれませんが…)。スポーツでも、ゲームでも、恥ずかしくて人に言えないような趣味でも、何でもいいですから夢中になれるものを探してください。何かをとことん探求し続けることで、学力の扉が開く日が必ずやってきます。

                 

                 

                 

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                内申点という魔物―それでも内申評価制度があるわけ―

                2018.12.28 Friday 11:00
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                  第2回コラムでは、内申点評価を軸として中学生活が送られることの弊害について述べました。古今東西を問わず、なぜ内申点評価が公立高校入試に幅を利かせ続けるのか。内申点について考えるシリーズ第3回は、内申点評価制度が公立高校入試に果たす役割について述べていきます。

                   

                   

                  ■高校浪人はご法度である

                   

                  周知のとおり義務教育は中学校で終了します。しかし実際のところ、中学卒業で社会に巣立つ生徒はほとんどおらず、中学から継続して高等学校へ学びの場を移します。この継続した中等教育を実現するにあたり、高校浪人を生み出すことは避けなければならなりません。

                   

                  受験という意味で比較するものに大学受験があります。大学は専門性を磨く高等教育機関であるため、高校からの継続性を保つことが重要ではありません。学びたいことがあれば、何歳であっても、2度目の大学入学であっても、本人の自由意志と責任において受験することが可能です。

                   

                  しかし、高校は事実上中学から継続する教育機関であるため、受験を失敗することは、生徒への様々なリスクが想定されます。例えば、全日制を希望する生徒が高校入試を全滅したとします。この生徒は明日からの在籍校がない事実をどのように受け止めればよいのでしょうか。この事実は、15歳の生徒にとって精神的な苦痛と責任能力の点で荷が重すぎます。どの高校を受験するかは本人の自由です。しかし、一般的に15歳の生徒は経験値が低く、見通しが甘い判断をしてしまいがちです。(藤井聡太君のような聡明で大人びた15歳であれば当てはまらないかもしれませんが。)15歳の生徒が将来の選択を行うことは自己責任だと周りの大人が突き放すことはできません。

                   

                  内申点評価制度があることで、生徒は自身の日頃の評価から入れそうな高校を相対的に把握できます。

                   

                  一方で、客観的な模試の成績から実力を把握し、大学入試のように当日の入試だけで合否を決する制度も可能ではあります。(実際に千葉県立千葉高校で実施されています。)この制度の問題点は、内申点が高くなくても実力一本でチャレンジを試みる者が現れることです。入学定員がある以上、不合格者は必ず発生します。確実な滑り止めとなる私立高校を複数受験しておくことがチャレンジの担保となるでしょう。前述した千葉高校のようなトップレベルの高校を受験しようとする成績上位者にとっては、滑り止めとなる私立高校の選択肢が存在します。しかし、同様の制度を中堅下位の高校に適用した場合、中堅下位層の受験者にとっては、滑り止めの選択肢が少なく全滅という危険が発生します。

                   

                  内申点評価制度は絶対的保証ではないものの、ある程度の“内定”を約束する通行手形のような役割を果たしています。翻して進路指導を行う中学校側から捉えると公立高校へ偏りなく生徒を振り分ける指標としての役割もあります。やはり、中学から高校へ円滑に生徒を送り込むために内申点評価制度は不可欠だということなのでしょうか。内申点評価制度について異なる視点から考えてみましょう。

                   

                   

                  ■公立高校が求める生徒像とは?

                   

                  高校側の視点から入試を捉えてみましょう。そもそも入試とは、どのような特徴や能力を持った生徒に入学してもらいたいかを学校が受検者へ向けて発信するメッセージです。例えば、グローバル教育を自負した高校があるとします。英語力はもちろんのこと、ディスカッション力や問題意識を持つ生徒に集まってほしいと考えるはずです。この場合、高度な英語問題・問題解決力を問う小論文問題・グループディスカッション型の面接を用意して、この3分野を高配点とする方法が有効です。高校の特色と個性が入試問題の問い方に表れます。

                   

                  こうした入試の在り方は私立中学入試や大学入試の世界で顕著です。早稲田大学政経学部では、私大文系として一般的である国語・英語・社会(選択として数学)の3科目に加えて、数学を必須化する動きが出ています。経営的な理由として、地方からの受験生増加を狙い地方国公立大学との併願を容易にする意味もあるようです。しかし、トップリーダーを養成する教育機関としての理由もあります。経済学では文系と言えども統計学などの高度な数学が必要となります。論理的思考力がリーダーの能力に求められる時勢において政経を目指す受験生には数学を勉強してきてもらいたい、という大学からのメッセージでもあります。ライバルの慶應義塾大学経済学部が以前より数学を積極的に入試に取り入れていることでも、経済学を学ぶ学生の数学力を重視していることが窺えます。

                   

                  以上のことを踏まえて、公立高校入試ではどのような学校の意思表明がなされているのか考えてみましょう。埼玉県では入試問題の内容は全校共通ですし、各教科100点×5教科の500点満点の配点もほぼ全校同一です。内申評価(調査書)は5点×9教科(中1〜中3)+特別活動等の記録の得点+その他の得点から構成されており、こちらも各高校おおよそ同じ仕組みです。学校ごとの違いといえば、内申評価点に係数を乗じることにより、入試問題点と内申評価点の比率に多少の変化を持たせていることくらいです。

                   

                  入試の問題量は標準的で、奇問難問はなく教科書レベルの難易度です。つまり、成績上位者ほど差がつきにくい入試問題ということになります。合否が左右される上で、実質的に成績上位者ほど内申評価の存在感が増します。第2回コラムで述べてきたように、内申評価において有利なのは、学内の成績に偏りがなく、学校生活の態度および部活動その他活動において“求められた正解”を出してきた生徒です。いかがでしょうか、公立高校が求める生徒像が見えてきたでしょうか。

                   

                   

                  ■内申評価が子どもの選択肢を奪う

                   

                  ずいぶん昔に私が塾講師をしていた頃の話です。塾では学校と違い、行事や集団行動といった生徒の生活面の様子を見ることがありません。(もちろん生徒の性格や個性は掴み取ります。)塾は勉学面をサポートする場ですから、生徒への思い込みはなく、生徒の学力に対する純粋な素養を感じとることができます。本質的な理解の速さ・インプットした知識をアウトプットに変換できる能力・論理的な発想力など、生徒毎に能力の特性がよく見えます。

                   

                  私の教え子にとても学力の素養を感じる男子生徒がいました。彼は、本質の理解が良く考える力が高かったので、一教えると十くらいを吸収できるタイプです。当然トップクラスの公立高校に進むものだと思っていたのですが、内申点はオール4程度で、中堅上位クラスの高校をなんとか受験できる状況でした。実力と内申点のギャップを不思議に感じ、彼に「なぜ内申点が低いのか」と聞いたところ、その答えに驚きました。「体育教師とそりが合わず、ずっと“1”をつけられている。他にもそりが合わない教師がいて、定期テストの点数に関わらず“3”がつけられている。」というのです。決して彼は素行不良だとか、悪態をつく生徒ではありません。むしろ、冷静沈着で大人びているタイプです。運動は不得意ではあるのですが、通常それだけで“1”がつくことはあり得ません。(当時の内申点は相対評価法でした。)どうやら彼は、管理主義万歳!筋肉体育会系の教師に好かれていないようなのです。結局、彼の希望が大学進学と自分のペースで勉強ができる環境ということだったので、私の勧めで電車で片道1時間くらいの場所にある、中堅上位校の中でも自由な校風と伝統がある高校に進学しました。

                   

                  彼とは逆に、内申点がオール5に近い評価ほどには本質的な理解がそれほどでもない生徒もいました。このタイプの生徒は、基本問題をセオリー通りに解くことはできますが、応用問題となると閃きが弱く歯が立たなくなってしまうことがあります。性格は明るく素直でとても人懐っこいので、先生に好かれそうなタイプです。内申点が満点に近く、受検校は選び放題でしたので、トップの公立高校へ難なく進学しました。

                   

                  内申評価と実力は必ずしも相関しません。そして、主観的な内申評価がつけられた時、15歳の子どもの進路にもたらされる影響をどのように受け止めればよいのでしょうか。ちなみに、いずれの生徒も、休まず私の授業を一生懸命に聞いてくれた思い出に残る教え子たちです。

                   

                   

                  次回からは、内申評価が“頭の良し悪し”を潜在的にカテゴライズする危険について述べていきます。

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                  内申点という魔物◆修垢戮討脇眇重世里燭瓠

                  2018.12.26 Wednesday 11:53
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                    第1回のコラムでは、内申点(調査書)が公立高校受験で無視できない存在であることを述べました。今回は、内申点評価制度が公立中学校の生活に及ぼす影響について綴っていきます。

                     

                     

                    ■普遍的な学力向上よりも定期テスト対策こそが生命線

                     

                    前回のコラムで既述の通り、9教科5段階(45点満点)の評価の大半は定期テストによって決まります。定期テストは授業で行った内容を基に作成されます。作成者である担当教諭の授業方針が反映されることとなりますから、生徒は担当教諭の授業内容を聞き漏らしてはいけません。加えて、担当教諭が作成してきた前年度までの“過去問”を分析して対策と傾向を練ることが重要となります。しかし、一生徒に過去問を効率よく集める術はありません(部活の先輩に顔が広いなら別ですが)。

                     

                    そこで、その役割を買って出るのが街の学習塾です。大々的に「定期テスト対策」だとか、「○○中学 S・N君中間テスト450点!」だとか塾の入り口に貼られているのを見たことがあると思います。学習塾では、在籍生徒から提出された定期テストの問題と解答をデータとして蓄積しています。塾の講師陣は中学校毎に分析をして、出題のクセを在籍生徒に指南するわけです。20年ほど前に私もこの業務に携わっていたことがあるのですが、ある中学校の数学の問題が前年度、前々年度とうり二つ!(いや、同じだ!)で少々引いてしまったことがありました。(昨今の先生方は丁寧に作成されていますよね…。)

                     

                    街の学習塾にとって定期テスト対策は、塾の評判を左右するメイン業務となるわけです。生徒たちにとっても学習塾に通う理由は、教科への興味や探求心を深めるためではなく、定期テストを効率良く乗り越えるためであるのです。定期テストの点数は前述の通り内申点へ直結するからです。

                     

                    数学を例にとってみましょう。塾や学校の授業において、数学が金融工学やものづくりなどを支え社会を変革できる学問であると、生徒が気づくことはまずないでしょう。数学の本質的な楽しさを発見し我こそは数学オリンピックに出場しようとか大学で数学を研究しようなどと息巻く生徒が多く現れることはありません。定期テストや内申点が眼前に立ちはだかる壁である以上、あくまでも数学は内申点のためにこなすべき一教科にすぎません。

                     

                     

                    ■得意や興味を研ぎ澄ますより平均的であれ

                     

                    内申点のためにこなすべき教科であることは数学に限ったことではありません。主要5教科から音楽や美術などの実技4教科まで万遍なくテスト対策をこなさなければなりません。一見すると数学や英語の方が実技科目よりも重要度が高い気がします。しかし、内申点評価では数学も美術も同じ1〜5点であることに変わりはありません。顕著な例として東京都立高校入試の制度を見てみましょう。都立高校の内申点評価では実技科目4教科の内申点が2倍されることから、実技4教科の対策に手を抜くことができません。(主要5教科(5×5=25点)+実技4教科(5×4×2=40点)=総合計65点 となります)もっとも、当日の筆記入試は主要5科目ですから、やはり英語や数学を勉強しなければなりませんが。

                     

                    どんな人にも向き不向きや得意不得意があります。夢中になれるものと出会い得意なものを伸ばすことは、自信とアイデンティティを確立させ、未来を切り拓く原動力となるはずです。土台となる基礎学力は身につけた方が無難でしょう。しかし、公立学校の世界では、秀でた才能や興味を伸ばすことよりもすべての科目を卒なくこなせる力こそが重宝されます。

                     

                     

                    ■部活動は刷り込まれた義務となる

                     

                    文科省指導要領では部活動はあくまでも課外活動にすぎません。ところが、授業よりも中学生活の中心的存在となっているのが部活動です。中学入学と同時に何かしらの部活動に所属を迫られます。(近年では所属が絶対的強制ではないところもありますが、多くの中学では所属しないという選択肢を選びづらいのが実情です。)小学生までは夢中になれるもの探しのために数々の習い事を詰めてきたはずなのに、中学からは部活動が既定路線となってしまいます。これは、学校だけでなく保護者も子どもも固定概念に囚われている不思議です。もっとも「中学部活待ってました!」と部活動を主体的に夢中になって取り組んでいる生徒にとっては、部活動は素晴らしい経験と成長に繋がる場となるでしょう。

                     

                    問題なのは、本当はやりたくないのだけれど部活動という既定路線を踏襲しなければいけないのだと刷り込まれている子どもたちです。刷り込まれる理由はどこにあるのでしょうか。一つは、部活動での実績は調査書の“特別活動等の記録の得点”につながること。もう一つは、部活動を継続して頑張ることは協調性やら忍耐だのと“求められている正解”なのだ、という潜在的な意識が働くことです。実際、途中退部や休みがちである生徒は一貫性がないとしてマイナス評価を受けることがあります。

                     

                    周囲と足並みを揃えることに注心し、自分の本当の気持ちを抑え(または気づかず)、義務として生徒たちが部活動を行うことは本末転倒です。そこにスポーツ(または文化的活動)を楽しむという視点はなくなるでしょう。全体主義的な行動規範と厳しい練習が要求され、勝利こそが部活動の成果であるという考えが蔓延ります。

                     

                     

                    ■生徒会・委員会活動は傀儡化する

                     

                    調査書の“特別活動等の記録の得点”には部活動のほかに生徒会や委員会活動も算定されます。先生から見た印象値を上げ、調査書の得点を稼ぐためという不純な理由から生徒会を買って出る生徒がいてもおかしくはありません。そもそも中学校において自主性が高い生徒会活動はそれほど多くないと思われます。校則を見直そうだとか、文化祭に新企画を取り入れようだとか立案して先生と話し合うなんて活動はあまり聞かれません(そんなことしたら逆に評価が下がるかも)。中学校の生徒会活動は先生が下絵を描いた内容に沿って活動を行うのが一般的です。生徒会役員=”優等生”のイメージが強いのもこのためです。

                     

                     

                    中学生は子どもっぽさが抜け、大人の世界が垣間見れる多感な時期です。先のことも、将来の夢も分からなくてもいい。夢中になれるものや興味の幅を広げられるものと出会い、10代前半の時期を自信と希望が抱ける時間に充ててほしい。勉学でも課外活動でも学校生活でも生徒がその本質的な楽しさや可能性に気付くことなく、目先の内申点だけを見て3年間を過ごすとすれば、それは人生の損失です。

                     

                     

                    第3回コラムでは内申点制度がそれでも導入される意義と公立高校入試について考えていきます。

                     

                    category:内申点という魔物 | by:理科塾comments(0) | -

                    自由な発想はどこから生まれるの?

                    2018.12.12 Wednesday 12:15
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                      できるといいな、山手線に代わるネオ平成時代の新路線!!「山手メトロポリタンループライン」

                      いえいえ、今巷でリツイートされまくっている創作路線図のことです。

                       

                      創作路線図は、山手線30番目の新駅“高輪ゲートウェイ”の名称発表に端を発します。どうやら、この駅名に対する世間の評判が芳しくありません。山手線初のカタカナ交じりの駅名に違和感を感じるというのがその理由です。早くも駅名撤回の署名活動まで始まっているのだとか。『公募では130位だった“高輪ゲートウェイ”が採用されるのは応募者に対する背信行為だ。』というのが署名活動を始めた方の主張らしい。JR東日本が進める駅周辺の一体再開発事業の名称と相まって、“ゲートウェイ”という名称ありきの公募だったのでは、との憶測も飛び交っています。

                       

                      駅名撤回運動をされている方々の言い分について、私も一定の理解はできます。しかしながら、駅名の是非よりも、プッと吹き出しながら感心させられたのが冒頭の「山手メトロポリタンループライン」の発想力です。

                       

                      この創作路線図を考案したのは、友人との待ち合わせ中に暇つぶしとして考えたという大学生です。『他の山手線の駅名もカタカナ交じりになれば“高輪ゲートウェイ”という駅名に違和感がなくなるのではないか。』と彼は思い立ち、山手線29駅の名称をカタカナ交じりに変更しました。

                       

                      創作駅名の内、私がフフッと笑ってしまったものをご紹介しましょう。“五反田セクシュアルプレイス”…西口を怪しく照らすあのネオンですね。ちなみに、東口は、池田山に鎮座する清泉女子大学と美智子妃殿下のご生家もあられた超高級住宅街が広がっています。五反田住民の名誉のために“五反田元祖ヒルズ”との駅名もありかもしれません。“巣鴨グランドマザーズ”…トゲ抜くおじいちゃんじゃなかったのね。“目白インペリアルカレッジ”…私は庶民として通いました。採用いただき光栄です!

                       

                      日々報道される出来事やニュースには世間から是々非々の議論が巻き起こるものです。昨今は、SNSを介して誰もが気軽に主張できるようになりましたから、注目された話題はあっという間に議論の餌食になります。しかし、是とする意見と非とする意見の衝突が交わることはありません。それは、両者の意見の根底にある前提が異なるからです。

                       

                      今回の駅名騒動について、非とする意見の前提は、『東京を代表する街を駆け抜ける山手線なんだから、安直なカタカナ語を使うべきではない。“高輪”や“芝浦”といった伝統的な地名を使うべきだ。』というところでしょうか。こうした前提は一理あると思いますが、一つの前提にこだわってしまうと新境地に踏み出せなくなってしまう弊害があります。仮に“ゲートウェイ”の違和感を取り除き、受け入れる立場をとるのならば、前提を変えてみることで新しい景色が開けるものです。

                       

                      そういう意味で「山手メトロポリタンループライン」を思いついた大学生の発想は柔軟で面白いものです。この大学生は、小学生の頃からホームページのデザインを手掛けたり、最近では学園祭の実行委員を務めていたりするなど、常日頃からクリエイティブな発想(本人曰く妄想)を楽しんでいるそうです。これからもこの若者は、今までになかった楽しいことや新しいことを仕掛けていくことでしょう。

                       

                      事態が膠着すること・自分の考えが親や友人の考えと折り合わないこと・解決策が見い出せないことは、誰でも経験するものです。そんな時は、自らのものの見方や考えの前提となるものを明らかにして、その前提に矛盾や誤りがないかを疑ってみることです。そうすることで、新たな視点や打開策が生まれます。小論文が苦手な人は、ありきたりで求められた正解をなぞるのではなく、前提を疑うことで発想の引き出しを増やしてみてはいかがでしょうか。

                       

                      category:知性を考える独り言 | by:理科塾comments(0) | -